サヨナラ

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「――――――」

 彼女はまるで、安さだけが評判の食堂の定食の味を語るのと同じ調子で、そっけなくその言葉を口にした。
 僕はすぐにその言葉の意味を理解することが出来なくて、とても間の抜けた答えを返したように思う。

「別れましょう」

 彼女は理解の遅い僕のためにもう一度同じ言葉を繰り返す。
 僕は気を落ち着かせるために、目の前の紅茶を無意味にティースプーンでくるくるとかき回した。
 彼女の言動に驚かされるのはいつものことだったが、その中でもこれはとびきりだった。
 一般的な他の恋人たちと比べれば、決して普通とは言えないまでも、僕たちは僕たちなりに恋人として順調に付き合ってきていたはずだ。今ここで別れを告げられる理由がまったくわからなかった。

「り、理由を聞いても?」
「そうね、いくつかあるのだけど……」

 彼女は飲んでいた紅茶を置いて、隣に視線をやった。
 僕も一緒にそちらを見やる。
 いつの間にかそこには彼女とよく似た顔の少女――彼女よりも三つか四つくらいは歳が下だろう――が座っていた。少女は冷めた顔でこちらを見ている。
 彼女に視線を戻せば、僕にも滅多に見せてくれない笑顔を浮かべてその少女を見つめていた。

「一番はこの子が――娘ができたからね」



 飛び起きて、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
 カーテンの隙間から朝日が差し込んで、すすけた天井や壁を部分的に浮かび上がらせている。部屋にはあまり家具はなく、最低限置かれているものも、長く使い込まれているのか元の色がわからないくらいに色あせていた。
 寝台の端に腰掛けながら狭い部屋の中を見渡す。

「ああ……泊めてもらったんだっけ……」

 そうやって呟いてみることで、より鮮明に昨日のことを思い出すことができた。
 昨日、エリナの娘――フィオレに家に招いてもらって、色んなことを聞いてもらったり、聞かせてもらったりしたのだ。
 だからだろう。あんな、エリナと別れた時の夢を見たのは。
 自分の意に反してため息が漏れる。
 あれは夢だ。
 別れを切りだされた時にフィオレが――それも現在の姿でいるわけもないし、そもそも別れの理由だって「研究に没頭したいから」というとても色気のない、けれども彼女らしいものだった。
 だからあれは夢でしかない。
 けれどもしかしたら、自分が知らなかっただけで、実はそれも理由の一つだったとしたら――。
 ついついそんなことを考えてしまうのは、やはり自分でも思った以上に彼女に子供がいたことがショックだったのだろう。
 ここに来るまで彼女が死んでるなんて思ってもみなかったし、フィオレに会うまで子供がいるなんて考えてもみなかった。
 別れる時に迎えにいくと約束したとはいえ、それもほとんど一方的に交わしたようなものだった。
 自分は決して忘れたことはなかったけれど、彼女は覚えていてくれただろうか……。
 今となってはわからない。

「ああ……本当に情けない……」

 がっくりと肩を落として、自己嫌悪に陥る。
 結局自分は何も変われていないのだろうか。