祈り

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 低い空は真っ青に塗りつぶされ、雲は刷毛で塗ったように遠くを流れている。
 光を注ぐ太陽はまだ暖かく、けれども冬の足音を知らせる風が、緑から黄や赤へと色を変えた枝葉を撫でていく。
 少女は一人、村の外れを歩いている。年の頃は十代も半ば、けれどもその顔に幼さは少なく、大人びてしっかりとしていた。
 少女は落葉をさくりさくりと踏みしめて、整然と並ぶ石の墓標の間を縫って進んでいく。
 右手には白い花束を抱え、左手には小さな籠を抱えている。籠の中には葡萄酒と今朝焼いたばかりのパンが一個。
 風に落とされた紅葉が墓標の上をなでていくのを見ながら、少女は進む。彼女の目当てはこの墓標たちから少しだけ離れた位置にある。
 墓標を離れてしばらく行くと、ようやく目当ての場所が見えてくる。
 けれど、見えてきたところで少女は足を止めた。
 一つだけ離れて置かれ、少女以外には訪れるもののいないまだ新しい墓標。
 その墓標の前に人がいた。
 男が墓の前に座って、声を上げて泣いている。
 墓標を建てた時を除けば、そこに彼女以外の者が訪れるのは初めてのことだった。
 立ち尽くしたままどうしようかと少女はしばし逡巡し、結局足を進めた。
 男は泣くのに夢中で近付く少女には気が付かないようだった。
 すぐ横に立っても気が付かない男に、少女は眉をしかめる。

「邪魔なんですけど」

 それで男はようやく少女に気がついて顔を上げた。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの男を、少女は見下ろす。

「人の家の墓の前で泣かれてると、とても邪魔なんですけど」

 見たことのない顔だと思いながら少女は邪魔だと繰り返す。
 男はぽかんと少女を見上げていたが、はっと気が付いて、墓前を彼女に明け渡した。
 少女は今まで男の座っていたそこに膝をつくと、持っていた花束と籠の中の葡萄酒とパンを供えて手を合わせた。一分ほど祈りを捧げてから顔を上げると、再び葡萄酒とパンを籠の中に戻し、花束を残してさっと立ち上がった。
 そのまま立ち去ろうとした少女を、男は慌てて引きとめる。

「待って、待ってくれ! 君はエリナの娘さんだろう?」
「そう言う貴方はどなたですか? 人のことを尋ねるのなら、まず自分の身分を明らかにしたらどうです?」
「あ、ああ、そうだね。僕はリドウィス。僕は、昔、その……エリナと、君のお母さんと、その……」

 そこで男は言いにくそうに一度口を閉ざし、まるでその一言が世界を壊してしまうかのように慎重に続きを言葉に乗せた。

「付き合っていたんだ」

 少女はその男の告白をひどく冷めた気持ちで聞いていた。

「それで、あの人の昔の恋人が今頃何の用でしょうか?」

 思っていたような反応ではなかったのだろう、男は虚をつかれたように少女を見た。

「用がないのでしたらわたしは帰りますが」
「あ、いや、待ってくれ!」

 男は気を取り直して話を続けた。

「僕とエリナは付き合っていたんだけれど、その……色々あって、別れたんだ。だけど別れる時に立派になったら迎えに行くって約束したんだ。それで……」
「ようやく立派になって迎えに来てみたら当の本人は亡くなっていたというわけですか」
「うん、そうなんだ……。それで…………ちょっとごめん……」

 気持ちが再び高ぶってきたのだろう。男の目には再び涙がにじんでいた。
 溢れる涙をぬぐう男を、少女は冷静に見やる。
 歳は少女よりも倍近くは違うだろう。身なりはこの辺りでは見かけない上等な装いだ。『立派になったら迎えに行く』という言葉通り、この男は立派な、結構な身分なのだろう。
 男が泣きやむのを待ちながら、少女は思案する。
 どうするべきかを。

「ご、ごめんね……話していたら、また悲しくなってきて……」
「いえ」
「あの、それで、もしよければエレナのことを……ここでどんな風に暮らしていたのかとか……教えてもらえないかな……?」

 少女は少しだけ首を傾けて、口を開いた。

「家に来ますか?」
「え? で、でも、……いいのかい?」
「こんな所では落ち着いて話も出来ないでしょう。それに、住んでいた家を見ればあの人がどんな風に生活していたのかもわかりやすいでしょうし」
「いや、でも……その……突然エレナの昔の恋人だって名乗る男が家にやって来たら、やっぱりいい気はしないんじゃないかな……」
「わたしは別に気にしませんが?」
「いや、君じゃなくて……その……君のお父さんが……」

 男は落ち着かなさげに手を忙しなく動かし、視線をさまよわせている。
 そんな男に、少女は目を大きくし、次いで笑みをこぼした。それは始めてみせる年相応の顔だった。

「貴方、あの人を迎えに来たっていうのに何も調べてないのね」

 くすくすと笑いながら少女は男に背を向けて歩き出す。

「え、あ、待ってくれ……!」

 少女は足元の落ち葉を蹴り上げながらくるりと振り返る。

「わたしに父はいないし、あの人に旦那なんていなかった」

 豆鉄砲を食らったような顔をしている男を見て、更に少女は笑う。

「我が家にいらっしゃいな。思う存分、貴方の感傷に付き合ってあげるわ」