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暗い夜空に浮かぶ細い弓張月はすでに大きく傾いている。一方、視線を反対の空へと転じれば、すでに空の際が朝色に染まり始めている。夜明けは近い。
それを横目に女は音を立てずに階段を上がっていき、一番奥の部屋の戸を開けた。部屋の中は薄暗く、また、外気よりは幾分かましではあるが、ひんやりとした空気に満ちていた。その中を、女は明かりも、暖房もつけることなく、一直線に寝台へと向かった。歩きながら着ている衣服を脱ぎすて、また、頭上できれいに結い上げていた髪も手早く解いていく。癖のある長い髪を下ろして下着姿になった女は、寝台に腰掛けると、そこでようやく一息吐いた。
動きを止めると、一気に疲労が全身を満たす。足は重く、咽喉には軽い痛みがあった。寂れた酒場で一晩中、聞きもしないお客のために歌い続けることは、そう辛いことではなかったが、それでもやはり多少の疲れは否めない。
化粧を落とそうと顔を上げた女は、ふと寝台横の鏡台の上に花が置いてあることに気がついた。
女は口元をほころばせ、それを丁寧に取り上げる。
部屋を出たときにはなかったそれは、まだ咲ききっていない赤い椿の一枝だった。
時折吹く風はいまだ冷たいものの、春はもうすでにそこまで来ているらしく、天頂からそそがれる日差しは確実に暖かさを増している。冬の装いで眠っている木々たちも、そろそろ頃合だと、眼を覚ます準備を始めているようだ。
公園の中の日当たりの良い場所に置かれた長い腰掛けに女が座っていた。大きな肩掛けをはおり、本を読んでいる。ゆったりとした淡い色合いの衣服に身を包み、いつもは結い上げている髪も、今は後ろで緩く編まれているだけだ。
その姿からは、場末の酒場で艶っぽく愛を歌っている歌い手のことなど想像も出来ないだろう。
日差しは暖かくなったとはいえ、それでもまだ長く外にいるには少しばかり寒い。いくら暖かい格好をしていても手足が冷えるのは避けようがなく、女は時折手に息を吹きかけながら擦り合わせたりしている。
そうやって女が本を読んでいると、その横に一人分ほどの間をあけて男が座った。端正な顔立ちをしていたが、眉間にしわを寄せ、機嫌の悪そうな男だった。近くの店で買ってきたのか、温かい紅茶の入った紙の容器を手に持っている。
女は読んでいた本を閉じてひざの上に置くと、軽く頭を下げた。
「お久しぶりです。この間お会いしたのは雪が降っている時でしたから、二ヶ月ほど前になりますね」
「無駄口はいい。報告を」
こちらを見ずに言う男に、女は口元を緩ませる。夜に店で見せる、口角を上げただけの作った笑いとは違う、本当の微笑だ。
「古狸の獲物を横取りした子猫は北に逃げて、それを黒い猟犬が追いかけて行きました」
男は聞きながら、紅茶に口をつける。
「獲物といっても、大した物ではなかったのですが、かのご老公には横取りされたことがよほど腹に据えかねたようです。一番腕の立つ猟犬を放ちました」
「子猫が捕まるのも時間の問題か」
「いえ」
否定の言葉に、男は視線だけを女に向け、無言のままにどういうことかと問いただす。
女は目を細めてそれを受ける。
「近く狸を喰らおうと片目の狼がやって来ますので、猟犬は主の下に戻らざるをえなくなりましょう」
風が女のはおる肩掛けを、男の纏う外套の裾を、はためかせて通り過ぎていく。腰掛けの向かい側に立っている椿の木から、ぽとりと赤い花が一輪、地面に落ちた。
「助けたのか」
男の眉間のしわがより深いものとなった。
反対に女の笑みは深くなる。
「私の歌を好きだと言ってくれましたので」
咄嗟に男は口を開いたものの、しばし逡巡し、何の言葉を発することなく沈黙した。
女はその様子にくすりと笑う。
「余計な手出しは避けろ」
その細やかな笑い声が気に障ったのか、男は口をきっと引き結び、無愛想に言った。
女は目を細め、ほくろのある口元を吊り上げる。
「心配してくれましたか? それとも妬いて?」
声音を落とし、艶を滲ませたそれに、男は視線を逸らして舌打ちをする。
「……馬鹿が」
女はくすくすと笑い、一瞬だけ覗かせた夜の色を取り払う。
「冗談です」
男はもう一度舌打ちすると、だいぶ冷めてしまった紅茶を飲み干して立ち上がった。空になった紙の容器を握りつぶし、腰掛けの横にある屑入れに投げ入れる。
「もう行く」
「はい。では次は薄紅色の花が咲く頃に」
背を向けた男に女は軽く頭を下げて見送る。
男は数歩進んだところでふいに立ち止まり、女に何かを投げてよこした。
反射的に女はそれを受け止める。
「暖かいものでも腹に入れていけ」
男はそれだけ言うと、もう立ち止まることなく足早に歩いて行った。
手の中には綺麗な色をした硬貨が一枚。
女は笑みを深くすると、優しくそれに口付けた。