先程まで暗い夜色をしていた空は、淡い光の色を上から塗りこめられ、すでに太陽を迎える用意が整えられている。しかし、多くの人間はいまだ目覚める気配も見せずに、夢の中を漂っている時間だ。朝とも夜とも言えない、狭間の時。
そんな人の気配の薄い街中を、女が一人歩いている。気だるさを隠そうとせずに、けれど足取りだけはしっかりと、朝焼けの街をこつりこつりと歩いている。いつもは笑みの形を作っている真っ赤な唇も今は下げられ、まっすぐ伸びた背中に疲労をにじませていた。
昼間はすっかり暖かくなったとはいえ、朝方はまだ冷たい空気が降りてくる季節だ。女は薄い外套をはおってはいるものの、その下に身に着けている衣服が露出度の高いものであるため、あまり用を成してはいなかった。時折風が吹くたびに肩を竦め、幾分か早足になりながら女は石畳を歩いていた。
そうして路地の角を曲がろうとしたところで、突然何かが飛び出してきた。女が慌ててよけると、それは冷たい道を駆け足で横切っていく。白い足先が靴下のような、真っ黒い子猫だった。建物の隙間に消える直前に一瞬だけ立ち止まり、ちらりと女のほうを見た。まるでぶつかりそうになったことへの謝罪のように小さな声で一鳴きしてから、するりと見えなくなった。そんな子猫の様子に、女は口元に柔らかい笑みを浮かべる。
ふと、背後に気配を感じて、女は振り向こうとした。けれど、女が振り向くよりも早く、声を上げる暇もなく、背後から伸びてきた手に捉えられ、ものすごい力で狭い路地の中へと引き込まれたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
男は目をつぶって座っていた。腕を組み、眉間にしわを寄せて、ひどく機嫌の悪そうに座っていた。
男がいるのは誰でも利用できる国立図書館の閲覧室であったが、その一角は非常に専門的な資料ばかりが並んでいるためか、他の利用者は見あたらない。
男の目の前の閲覧台には一冊の本が置かれているものの、開かれた様子もなく、はた目からでは男が起きているのか、寝ているのかもわからなかった。
ただ男は身じろぎもせずに座っている。
そこへ一人の利用者がやってきた。ゆっくりと棚の本を見て回ると、目をつぶっている男を気にすることなく、その隣の席に腰を下ろす。
その気配に気が付いたのか、男は片目だけを開けてちらりと隣を見やった。そして、そこに見出した姿に目を見開く。
隣にいたのは黒い眼帯をした銀鼠色の髪の、若い青年だった。粗末な木製の椅子に、まるでそれが王者が座る最上級の椅子であるように尊大に座り、にたりと笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「近衛騎士期待の副隊長さんが、真昼間にこんなところでサボっていてもいいのかい」
その言葉に不機嫌そうな男は片方の眉を跳ね上げる。
「山犬の首領が供も付けずにこんな場所へ何の用だ」
青年が男を知っていたように、男も青年の正体を知っていた。
眼帯の青年はにたにたと笑みを深くする。
「そう邪険にすることもないだろう。この国の汚濁を取り除いてやったのは俺だぜ」
そんな青年に男は何も言わず、ただ射るような視線を突きつけるだけだった。
それを見て、青年は大仰に肩をすくめる。
「アンタもっと愛想良くしたらどうだい」
「ふざけるな。用がないなら目の前から消えろ」
「おお怖い」
ふざけたような物言いに男がさらに目つきを鋭くすると、青年は男が何か言うより早く言葉を接いだ。
「まぁ、待てよ。アンタに忠告を持ってきてやったんだぜ」
「いらん」
「即答かよ。別に金取ろうってわけじゃないんだ。聞くだけ聞いとけって」
男は眉間のしわを深くして口を開きかけたが、途中で思い直し、不機嫌そうな表情のまま、視線だけで続きを促した。
「そうこなくっちゃな」
眼帯の青年は、にたりと笑う。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
強い力で壁に叩きつけられて、女の身体が無言の悲鳴を上げた。崩れ落ちる間際、今度は外套の襟元を掴まれて壁に押し付けられる。
女を取り押さえているのは一人の男だ。血走った目をして、ひどく追い詰められた様子だ。
――オマエノセイダオマエガアイツニジョウホウヲナガシタンダロウソノセイデオレタチハ――
男がわめいているのを、女はどこか遠くのほうで聞いていた。左の頬がじんじんと熱かった。咽喉もとを締め付けられているために息をすることもままならず、口からは言葉にならなかった音がこぼれ落ちていく。
――オマエノセイダチクショウオマエガヨケイナコトヲシナケレバオマエサエイナケレバ――
視界の隅で、影が動いた。
唐突に一方的な力の押し付けから女は解放され、支えを失った身体は冷たい地面に崩れ落ちた。狭められていた咽喉が元通りに開き、空気が体内に一気に入り込んでいく。痛む咽喉を押さえ、咳き込みながら、女は見上げた。
今まで女を締め上げていた男が、今は反対に吊るし上げられている。それも男よりも細身の青年の手によってだ。
「アンタわかってないなぁ。女ってのは殴るもんじゃなくて可愛がるもんだぜ」
青年はにたにたと笑いながら、腕一本で自分よりも大柄な男を吊るし上げている。男は必死に抵抗するものの、青年の腕はびくともしない。それどころか、よりいっそう手に力を込め、掴んでいる首を締め上げていく。男の咽喉から濁った悲鳴があがる。
「耳に障る汚い声だ」
そう言い捨てると、青年は地面に叩きつけるように男を放し、更に激しく咳き込んでいるその身体に蹴りを入れた。青年はにたにたと笑いながら冷めた目で男を見下ろす。
「オレの機嫌をこれ以上損ねる前に、さっさと消えたらいいよ」
男はよろけながら、慌てて逃げていった。
青年はまだ座り込んでいる女のもとにしゃがみこみ、赤くなっている左の頬を優しく撫でた。
「女の顔を殴るなんて酷い奴だ」
「ありがとうって、言ったほうがいいかしら。片目の狼さん」
女はほくろのある口元に笑みを作って、少しかすれた声で言った。
左目に眼帯をした隻眼の青年はにたりと笑う。
「さっすが街一番の情報屋の評判はだてじゃないね」
「そんなことないわよ。貴方は有名だもの」
「強突く張りな山犬の王だって?」
「さぁ、どうかしらね」
青年の片方だけの紫紺の瞳に映った女は口の端を持ち上げて笑っている。
「その山犬の王さまが、こんなしがない情報屋に何のご用かしら」
「興味があっただけさ。望めば何だって手にはいるだろうに、国の番犬なんかに飼われて場末の酒場で娼婦まがいの歌うたいなんかやってる、当代随一の評判高い情報屋にね」
頬を撫でていた指が、女の赤い唇をなぞる。
「でも、意外だったな」
青年は感情の見えない墨色の瞳を覗き込んだ。
「こんなに綺麗なオネーサンだったとは、ね」
口付けを交わせるほどの距離で、紫紺と墨色の視線が混じり合う。
青年は目を細めて、愛を囁くように言葉を紡ぐ。
「なぁ、アンタ、オレに買われないか」
女は一つ、瞬きをする。
「私を買ってくれるの?」
「場末の酒場の安い愛なんかと比べ物にならないくらい上等な愛をくれてやるぜ」
青年の手に自らの手を重ねて、女は笑う。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「アンタは待ち人が来ない可能性を考えたことはあるかい」
青年の言葉に男は眉間のしわをより深くする。けれど青年はにたにたと笑いながら言葉を続ける。
「今まで当たり前にあった物がなくなることを考えたことは?」
「貴様は何を言いたい」
「わからないならそれでもいいさ」
眼帯の青年は軽やかに立ち上がった。剣呑な目つきの男を見下ろして、にたりと笑う。
「オレがもらうだけだ」
言うだけ言うと、青年はひらりと背を向けた。
男は咄嗟に呼び止めようとしたものの、すでに青年の姿は本棚の間に消えて、見えなくなっていた。舌打ちをすると、大きく息を吐いて、椅子に座りなおした。
誰もいない閲覧室の一角に、一人で座っている。青年が現れる前となんら変わりのない状況であるはずなのに、男の心の内にはじりじりとしたわだかまりが存在していた。
男はもう一度舌打ちをする。
何もかもが気に障った。寄りかかるとぎしりと軋む椅子も、その小さな音が響いてしまうほどの静けさも、部屋に充満している古い本の香りも、何もかもが男を苛立たせる。
認めたくはなかったが、先程の青年の言葉に精神をかき乱されていた。
男は今一度大きく舌打ちをすると、乱暴に立ち上がった。
「あの……」
声を掛けられて、男は我に返る。
閲覧台の向こう側に人が立っていた。大きな眼鏡をかけて、胸に数冊の本を抱えた女だった。
「その本、もうお使いにならないなら、私がお借りしてもいいですか?」
口元にほくろのある女は閲覧台に置いてある本を指してそう言った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
女は赤い唇の端をわずかに上げて笑う。
「ねぇ、狼さん、貴方は私の好きな歌を知っているでしょう?」
男も笑う。
「愛の他には何もいらないっていう、アレだろう」
「そうよ。でもこの歌には二番があるの」
そう言って、女は囁くように口ずさむ。
――あの人への愛だけで生きていけたら
――それだけで何もいらない
――愛に埋もれて
――愛に溺れて
――あの人のために
――愛を歌う
――あの人の他には何もいらない
――一日の糧も一杯の水も
――たくさんの金貨も美しい宝石も
――あの人の他には何もいらない
――ただそれだけでいい
――それ以外の愛はいらない
――あの人だけが私のすべて
女は青年の手をそっと握り締め、微笑を浮かべたまま、見開いた紫紺の色を感情のない瞳で真っ直ぐに見つめた。
一瞬の瞠目の後、青年は大きく笑った。
「負けた! アンタには負けたよ!」
片手で顔を覆うようにし、声を立てて、本当に愉快そうに笑っている。
女もにっこりと笑った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
男は目を見開き、そして盛大に顔をしかめて口の中だけでにたにたと笑う青年を罵倒した。
それを女は首を傾げて不思議そうに見ている。
「あの?」
なんでもないと男は首を振ると、不機嫌そうな顔で、閲覧台に置いた本を彼女に差し出した。
そして感謝の言葉と共に伸ばされた女の手を男は強引に引き寄せ――
女の掴み損ねた本が、台の上に落ちる。
男はすぐに手を離すと、ふいっと女に背を向けた。
「後で、連絡する」
男の去った後には赤く咲いた花が一輪、静かに立っていた。
終わり