星追う夜

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――愛だけで生きていけたら
――それだけで何もいらない

 薄暗い店内には両手の指からわずかに溢れる程度の客だけしかいない。その店の奥、床が一段高くなっただけのお粗末な舞台では女が一人歌っている。鼻にかかった声で歌っているのは、一昔前に流行った甘ったるい詩の歌だ。けれど客たちは自分たちの会話に夢中になっているか、安酒に呑まれてつぶれているかで、女の歌に耳を傾けている者はいない。

――愛に埋もれて
――愛に溺れて
――愛のために
――愛を歌う

 この店がもっと上等で、女の歌がもう少しだけ上手く、あるいは女がもう少しだけ若ければ、客の男たちはその歌声に聞き入ったかもしれない。けれど店は古さと安さだけが自慢の寂れた場末の酒場で、女の歌は飛びぬけて上手いというほどではなく、また女は若いというには少しばかりとうが立ち過ぎていた。客たちにとって女と歌は背景でしかなかった。
 女もその役目をわきまえているのだろう。客の邪魔にはならないように静かに歌っている。

――愛の他には何もいらない
――一日の糧も一杯の水も
――たくさんの金貨も美しい宝石も
――愛の他には何もいらない
――ただそれだけでいい
――それ以外は何もいらない
――愛だけが私のすべて

 女は歌い終わると、聞いてもいない客に向かって丁寧に一礼し、壇上から降りた。咽喉を潤すために年老いた店主に近寄れば、何も言わずとも洋杯が差し出される。けれどその中に注がれているものは、いつもの水に味が付いたような薄い酒ではなく、この店にもこんなものがあったのかと思える上等な――もちろん値も高い――果実酒だった。
 女が目だけで問えば、店主は店の片隅にいる一人の男を示した。
 そこにだけ夜の闇が入り込んできたような黒づくめの、他の客とは明らかにまとう雰囲気の異なる一見の客だった。
 女は小さなほくろのある口の端を上げて、真っ赤に刷いた唇で笑みを形づくる。杯を片手に静かに男に近寄り、空いている手を男の椅子の背もたれにかけて横に立つ。

「ここ、良いかしら」

 男はそれを横目でちらりとだけ見て、何も言わずに酒を傾けた。男の飲んでいる酒も、女の物と同様に、この店には不釣合いな類の物であった。
 女はそれを了承と受け取り、隣に腰掛ける。
 男は何も言わず、女も口を開かない。
 女の洋杯の中身が三分の二ほど消えた頃に、ようやく男が口を開いた。

「六日ほど前、若い男を一人助けただろう」
「さあ。怪我をした子猫なら拾ったけれど」

 女は酒を舐めるように飲みながら答えた。
 男は酒杯を置くと、鈍い色の銀貨を一枚取り出し、机の上に置いた。
 それを見て女はわずかに目を細める。
 男は問いを繰り返す。

「若い男を助けただろう。日に焼けた赤茶色の髪をした痩せた男だ」
「お金なんていらないわ」

 歌うような言葉に男は訝しそうに女に目をやった。
 女は男の薄い緑の視線を受けとめながら口ずさむ。

――たくさんの金貨も美しい宝石も
――愛の他には何もいらない

「貴方が私に愛をくれるなら、貴方の知りたいことを教えるわ」

 女は赤い唇に笑みを作って言った。
 男は眉をしかめて小さく舌打ちする。

「お前の体を買えということか」
「そうね。それでも良いわ。心を愛するのも、身体を愛するのも、愛には違いないもの」

 女はそう言うと、杯を空けておもむろに立ち上がった。
 咄嗟に男はその腕をつかんで引き止める。
 女はほくろのある口元を上げて、しなだれかかるように男に身体を寄せる。

「二階の右奥の部屋で待っていって。店の裏の階段から上がれるわ」

 それだけをそっと囁くと、女は離れていった。
 しばらく男はその様子を眺めていたが、残りの酒を飲み干すと、机の上に代金を置いて何も言わずに店を出て行った。



――愛だけで生きていけたら
――それだけで何もいらない

 女は素肌に薄い寝具だけをまとい、けだるげに寝転がりながら口ずさんでいる。
 男は上半身をさらして寝台の端に座って紫煙を吐いている。
 衣擦れの音と、女の歌声、そして階下から伝わってくる喧騒が静かに交じり合う。

――愛に埋もれて
――愛に溺れて
――愛のために
――愛を歌う

 男は煙草を消すと、立ち上がり、床に落ちている上着を拾い上げた。
 それに気付き、女は歌うのを止める。

「もう行くの」
「ここで無為に時間が通り過ぎていくのを傍観していられるほど暇ではない」
「そう、残念ね」

 女は口角だけを上げて笑う。
 身支度を整えると、男は数枚の銀貨を取り出し、寝台の上に放った。

「知っていることを話せ」

 女は身を起こすと、銀貨の一枚を手に取り、それに唇を落とし、再び口ずさみ始める。

――愛の他には何もいらない
――一日の糧も一杯の水も
――たくさんの金貨も美しい宝石も

「いい加減にしろ」

 男は尖った声で歌をさえぎった。鋭く睨み付けても、女は気にした様子もなく、赤い唇の端だけを上げて笑っている。男は大きく舌打ちし、背を向けた。
 女は壁に寄りかかり、独り言のように言う。

「北に向かったわ」

 背中に投げかけられた言葉に男は立ち止まり、半身だけ振り返った。
 女は相変わらずほくろのある口元だけで笑みを作っている。

「二日前に、街道沿いに北に向かったわ」

 男はそれだけ聞くと再度背を向け、今度こそ部屋を後にした。
 それを見送ると、窓から見える空を見上げた。
 丸みを帯びた月の下を星が一筋流れていく。それを追いかけるようにもう一筋、星が落ちる。
 女は銀貨にもう一度唇を落とすと、無造作に寝台の上に放り投げた。