星降る夜

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 夜の帳の落ちた人気のない街並みを、一人の男が駆けている。澄んだ空気に白い息を吐きながら走っている。執拗に追いかけて来ていた声も足音も、とうに聞こえなくなっていたが、それでも男は走ることを止めなかった。どこを走っているのか、どこへ向かっているのかも、最早自分でも把握できていない。それでも、暴力を振るわれて鈍く痛む身体を、男はがむしゃらに前へ前へと動かしていた。
 適当に曲がった何度目かの角で、大きなゴミ箱にぶつかった。避ける間もなく、ゴミを撒き散らしながら男は箱と共に勢い良く道に転がる。
 立ち上がろうと両手を地面につき、足に力を入れるが、重い身体は持ち上がらず、すぐに崩れ落ちる。それを男は二度繰り返し、三度目は諦めて、素直に体を凍った地べたに横たえた。ぜえぜえと咽喉を鳴らして白い息を繰り返す。熱を持ち始めた身体には、身を切るほどに凍えた空気と地面でさえ心地良かった。
 男は首だけを動かして、月のない空を仰ぎ見た。冷たい空気の中、数多の小さな星が瞬いている。頭を静かに地面に下ろすと、男はゆっくりと瞼を閉じた。目を閉じる直前、視界の端に一筋の光が流れ落ちて行くのが見えた気がした。



――愛だけで生きていけたら
――それだけで何もいらない

 男の意識が表面に浮かび上がってきたのは、歌が聞こえたからだった。鼻にかかった声と甘ったるい歌詞に誘われるように、ぼんやりと目を開く。
 自分の身体を認識した途端に、全身の痛みが存在を主張し始めた。身体が鉛のように重い。そこでようやく男は自分が温かく、そして柔らかい物に包まれていることに気が付いた。
 目の前には薄汚れた天井がある。
 上手く回らない頭で、男は自分が死ななかったということだけを理解した。

――愛に埋もれて
――愛に溺れて
――愛のために
――愛を歌う

 歌はまだ続いている。
 男は視線だけを横に動かした。そうすると、寝台の横の鏡台に向かっている女の横顔が目に映った。
 女は耳飾を外しながら、口ずさんでいる。

――愛の他には何もいらない
――一日の糧も一杯の水も
 よく動く唇の側には小さなほくろがあった。
 男はそれをぼんやりと見る。

――たくさんの金貨も美しい宝石も
――愛の他には

 唐突に真っ赤な唇は閉じられた。

「あら、起きたのね」

 男が目を開けていることに気が付いて、女は唇の端をわずかに上げて微笑んだ。
 何か言おうと男は口を開けたが、声は擦れるばかりで、まったく意味のある言葉にはならなかった。
 それでも女は問いを察して、答えを返す。

「ここは私の家よ。大丈夫、まだ寝ていて良いわ」

 細く冷たい女の手が男の瞼の上に置かれ、視界を閉ざした。
 赤い唇からもれるのが歌ではないことが、何故か男には残念に思えた。

「大丈夫、ゆっくり休んで」

 鼻にかかった優しい声と、冷たい手の温度に促され、男の意識は再び泥の底へと沈んでいった。



 次に男が目を覚ました時も、女はやはり歌っていた。歌いながら、椅子に座って爪の手入れをしていた。まるで下着のような格好で、細く長い手足を惜しげもなくさらしながら爪の形を整えている。洗いざらしの長い髪は無造作に束ねられ、顔には化粧さえもしていない。そのためか、前に起きた時とはずいぶんと印象が変わっていた。
 それを見ながら男は身体を起こした。痛みはまだ全身に残っていたものの、耐えられないほどではない。熱もだいぶ下がったようで、身体はずいぶんと楽になっていた。
 女は男が起きたのを見ると、やはり歌うのを止めて微笑んだ。印象が違うせいか、同じはずのその笑顔も、まったく違った感じを受ける。

「お腹が空いたでしょう?」

 そう言った女に男はどう返したらいいものかわからず、黙ったまま、ただ見返した。
 けれど、元から返答など求めていなかったのか、女は気にする様子もなく、そのまま立ち上がって部屋の奥へと行ってしまう。
 男はそれを見送ると、ほうっと一つ息を吐き、上体を再び柔らかな寝具の上に倒した。耐えられないことはないとはいえ、やはり横になっているほうが楽だった。
 そのままの状態で、男は周囲を見回してみる。
 部屋は狭かった。男が寝ている寝台と、その隣に置いてある鏡台、そしてその向かいにある小さめの衣装箪笥。その三つだけで部屋がいっぱいになってしまうほどの大きさだ。
 もう一度男は息を吐いた。
 しばらくして、女は深皿に盛った雑炊を盆に載せて戻ってきた。
 食べ物を見た途端に、自分が空腹であることに男は気が付いた。同時に、腹が鳴る。
 女はくすりと笑って、再び身体を起こした男の前に盆を置いた。

「急がずに、ゆっくりと噛んでから飲み込んで」

 男は照れ隠しに憮然とした表情で小さく頷き、言われた通りにゆっくりと食べ始めた。
 自覚はしていなかったが、身体はずいぶんと栄養を求めていたのだろう。匙を口に運んだ瞬間に、男の顔が自然と綻んだ。一口ごとにゆっくりと噛み締め、飲み込むたびに、身体中が満たされていくようだった。
 そんな男の様子を、女は鏡台の椅子に座って楽しそうに眺めていた。
 時間をかけて雑炊を食べ終えると、男は満足そうに息を吐き、そして初めて女に対して感謝を口にした。思えば、寒空の下、怪我だらけで倒れていたのを助けてもらっておきながら、まだ一度も礼を言っていなかった。男はそのことに対しての謝罪も述べる。

「いいのよ。あの夜は寒かったから、温かいものを拾いたくなっただけだもの」

 だから気にしなくていいと、笑いながら女は言った。
 それに対して男は何かを言おうとして、けれど言うべき言葉が見付からず、しばらく迷った末に、もう一度感謝の言葉を告げた。
 口元にほくろのある女は、今度は笑みだけを返した。



 暗い夜道を男は白い息を吐きながら歩いている。
 ぼろぼろの身体で追っ手から逃げていたあの日のように空気は冷たく、澄んでいた。夜空には半分の月が昇っている。無数の小さな星も瞬いている。
 痛みが引くまでは居てもいいと言う女の厚意に甘え、目が覚めてから五日間、男はあの部屋で世話になった。
 その間、女は男に何も問わず、男も女に何も尋ねなかった。互いの名前も知らないまま、狭い部屋で共に生活した。
 一日のほとんどを男は傷を癒すために寝台で過ごし、女はいつもその傍らの鏡台で何かをしていた。そして日が傾くと女は化粧をし、身支度を整えて出かけて行き、朝日が昇って男が起きた頃に帰ってきて、一緒に朝食を食べた。そして再び男の傍らで何かをし始める。その繰り返しだった。
 そんな日を五回繰り返す間に、男の身体の傷はずいぶんと良くなり、痛みもほとんどなくなった。世話になる必要と理由をなくした男は、部屋から出て行くことを決めた。男が世話になった礼を告げると、やはり女はほくろのある口元に笑みを浮かべて、何も言わずに見送った。
 人気のない暗い道を、男は白い息を吐きながら歩く。歩きながら、口元にほくろのあるあの女を思った。名も知らない、もう二度と会うことはないだろう女を想った。
 見上げると、半月が輝く夜空に一筋の光が流れ落ちていくのが見えた。