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四月に入り、だいぶ春らしくなってきました。雪もほとんど融けてしまい、ほんの少しだけお庭の片隅に残っているだけです。それもこのまま暖かい日が続けばすぐになくなるでしょう。
冬の間は白い色に覆われていたお庭も、今では緑色や赤色、ピンク、黄色、紫など色々な色彩で溢れています。
それはいつもと変わらない春の景色です。
お庭の様子や窓からの眺めは変わりありませんが、お家の中はほんの少しだけ変わりました。
住人が一人増えたのです。
それは先月の中頃にお客さまとしてやって来た男の子でした。
継春くんというそうです。修也さんの甥っ子さんです。
この春からここの近くの高校に入学するそうです。ご実家が遠いので、ここから通うことにしたのだとか。
これらは全部修也さんと継春くんがお話しているのを聞きかじったことです。
だから少し私の想像も入っています。
継春くんは私の姿が見えているはずですが、まるで見えないように、気付いていないように振舞っています。それでも時折、何かの拍子にうっかりと視線なんかがあってしまうことがあります。すると彼はしまったというように眉をしかめたり小さく舌打ちをしたりするのでした。
私は少しだけ悲しくなります。申し訳ないなという気持ちもあります。
勝手に居候させてもらっている私のせいで嫌な気持ちになってしまうのですから。
なので、私は継春くんがお家にいる時はできるだけお家の中にいないようにすることにしました。或いは、お家の中でも継春くんと鉢合わせることのない場所にいることにしています。
継春くんは高校生なので平日はほとんどいないため、朝と夜だけ気を付けるだけで済みます。
朝早めに出かけてゆっくり散歩をして、継春くんと修也さんが出た頃を見計らってお家に帰ります。夕方ぐらいにまたお家を出て、すっかり暗くなった頃、日付が変わる前に帰ってくるのです。
こうすれば、継春くんがいつもとは違う行動をとっていない限りは顔を会わせることはないので嫌な気持ちをさせずに済みます。
修也さんにいってらっしゃいとおかえりなさいを言えないのは寂しいですがしょうがないです。
それに聞こえない幽霊の私からの挨拶よりもちゃんと聞こえる継春くんからの挨拶のほうが嬉しいですものね。
本当はこのお家から出て行くことも考えたのですが、他に行く当てを思い付けなかったので断念しました。私は幽霊なので寒さ暑さも雨風もまったく関係ないので、外で暮らすこともできます。それでもやっぱり、できれば落ち着くことのできるお家があるほうが良いと思うのは我侭なのでしょうか。
私は一つため息を付きました。
そんなこんなで、心が浮き浮きと湧き上がる季節であるにも関わらず、私の気持ちは沈んだままなのでした。
仕方ないとは分かっていても、嫌われるのは悲しいことです。
お花の増えた庭を眺めて少しだけ心を慰めます。
最近、継春くんがいない平日の昼間は家でのんびりすることにしているんです。すっかりと春らしくなった庭を眺めたり、以前よりも物の増えたお家の中を感慨深く見て回ったりします。
今日もぼんやりと居間の大きな窓の前に座ってお庭を眺めていました。時間は正午を回り、太陽が高く昇った頃合です。
いつもならば誰もいない時間帯です。
けれど不意にガチャガチャと玄関の鍵が開けられる音がしました。
私はびっくりして玄関まで覗きに行きました。
こんな昼間に誰かが帰ってくることなど今まで一度もなかったことです。
ドアを開けて中に入ってきたのは継春くんでした。
私はいけないと思って慌てて廊下の端っこの飾り棚の陰に隠れました。隠れたとはいっても、棚は小さいので身体のどこかかしこかははみ出してしまっていたのですが。
でも継春くんはお粗末に隠れた私のことなど気にも留めずに、そのまま真っ直ぐ自分のお部屋に入っていってしまいました。
しばらくは物音がしていましたが、それもすぐに聞こえなくなりました。
どうしたのかと、私はそっと部屋の前まで近付いてみました。
耳をそばだててみても、妙に静かです。
継春くんが帰ってきてしまったならば、家にいないほうがいいでしょうか。
でも……、と私は迷います。
私が見ていたのは玄関を開けてお部屋へ直行するまでの短い距離だけですが、少しふらふらしていたように感じました。
もしかしたら体調が悪いのかもしれません。
具合の悪い人をたった一人お家に残して出かけてしまうのは気が咎めます。とは言っても、幽霊の私には何もできないのですが……。
ドアの前でどうしようかと迷っていると、部屋の中から咳をする音が聞こえました。
やはり体調が悪いのでしょう。
少しだけ考えてから、私は部屋の中を覗いてみることにしました。具合が悪い時に嫌いなものなど見たくないでしょうから、ほんの少し、様子を見るだけのつもりでした。
ベッドでちゃんと寝ているのを確認したら、すぐに出て行こうと思っていました。
けれど、目を閉じている様子が辛そうで。
以前修也さんが風邪を引いて寝ていた時にしたように、額に手を当てるようにしてみました。
私は幽霊なのでそんなことをしてみたところで何の意味もありません。継春くんも額を触られていたり、何かを乗せられていたり等の感触はないはずです。
それでもせめて、少しでも早く良くなりますようにと祈りをこめて。
そのまましばらく側で見守っていましたが、呼吸が落ち着いてきたのを見てから部屋を出ました。
あまり他人に、それも嫌っている人に部屋を見られたくないでしょうから。
その後は修也さんが帰ってくるまで居間の窓の前に座っていました。
修也さんはいつもよりも一時間以上早く帰ってきました。おそらく継春くんが体調不良で早退したと連絡をもらっていたのでしょう。鞄と一緒に持っていたビニールの買い物袋の中には時々買ってきていたコンビニのお弁当等ではなく、林檎と蜜柑、それからプリンが入っていました。
継春くんがお部屋で眠っているのを確認すると、修也さんは台所で料理を始めました。
私はそれを見てから、お家の外へと出ました。
継春くんが起きてきた時に下手に鉢合わせてしまわないように、です。
その日はお家には帰りませんでした。暗く人気のないいつもの散歩道をぶらぶらして、近くにある大きな公園の滑り台の上で夜を明かしました。
空を眺めても街灯と月が明るくて星はあまり見えませんでした。
結局帰ったのは空が明るくなってだいぶ経ってから。学校へ登校する子供たちが賑やかに通り過ぎた後でした。
私は少しドキドキしながらお家に入りました。中はしんと静かで、二人とも出かけた後のようでした。
トラコさんがお帰りと言ってくれるように寄ってきてくれました。
ありがとうと答える代わりに背を撫でるようにしてあげます。
それから一緒にいつもの窓辺に座りました。
窓越しの明るい日差しが優しく感じられました。
そうしてぼんやりしていると、不意に物音がしました。
振り向くと居間の入り口に継春くんが立っています。
私はしまったと思いました。
体調がまだ万全ではないので今日は学校をお休みしたのでしょう。
どうしようかと私が少し動転していると、継春くんが口を開きました。
「昨日は……」
迷うように視線をうろうろとさせながら、それでも続けて言います。
「ありがとう……」
言い終わるとすぐにぷいっとそっぽを向いて戻っていってしまいました。
私は数度瞬きをし、トラコさんを見ました。
今の言葉は、私に対してだったのでしょうか。
トラコさんは知ったこっちゃないとでも言うかのように、寝転がって大きな欠伸をしています。
頬に手を当てました。
なんだかじわじわと嬉しい気持ちが湧き上がってきます。
自然と顔が緩んでいきました。
私は久しぶりに笑いました。