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「ちょっと、散歩に行ってきますね」
「あぁ、うん……いってらっしゃい」
返事をして見送って、継春は一つ息を吐いた。
気を使わせてしまったのだろうと思う。
腕に抱えているスケッチブックに目を落としても、紙の上にはまだ何ともわからない数本の線が伸びているところからなにも進んでいなかった。
最近、継春は絵を描くことに集中できないでいた。
こんなことは初めてのことだった。
今まではただがむしゃらに、絵だけを描いてきた。
何があっても――誰かと喧嘩をしたり、嫌な事があったり、気分が落ち込んでいたり気がたっていたりしても、ペンや筆を持って紙やキャンバスに向かえば自然と絵に集中して、余計なことなど忘れてしまえていたのだ。
それなのに、最近はどうにも絵を描くことに集中できないでいた。
描いていても気が付けば手が止まり、考え込んでしまう。
思考の先は、この家にひっそりと住んでいる幽霊の少女のこと。
自分が考えたところでどうにかできる訳でもないのに、気が付けばあれこれと考えてしまっている。
思考を切り替えようと、継春は軽く頭を振った。
スケッチブックを抱えなおし、窓の外に目を向ける。
しとしとと降る雨に庭の草花はすっかり濡れていた。
先程出かけたばかりの彼女が、以前、幽霊だから雨の日でも濡れないで散歩できるのだと話していたことを思い出す。
雨に濡れることも、暑さ寒さにも影響されないということは、少し羨ましいような気もするが、けれどきっと、とても寂しいことなのではないかと思う。
彼女がそういうことを口にしたことはないけれど。おそらくは。
あぁ、だめだ、と継春は息を吐いた。
結局、彼女のことを考えている。
諦めてスケッチブックを閉じた。
こんな調子では何も進まないだろうことは目に見えている。
「俺も、散歩に行こうかな……」
雨降りだけれど、気分転換にはそれもいいだろう。
継春はスケッチブックとペンを置いて立ち上がった。
簡単に支度を整えて外に出た。
鞄の中には、珍しく絵を描く道具は入っていない。財布と携帯と家の鍵、それだけ。
玄関先でビニールの傘を開く。パンと軽い音とともに半透明のビニールが広がる。
濡れないよう頭上にかざしながら軒先から外に出た。
ぽつぽつと傘に雨粒があたる小さな音が耳に届く。
さてどこへ行こうかと考えながら継春は門を出た。
ふと視界の端に何かが映った。
そちらの方に顔を向けると、隣家の庭先にしゃがみこんでいる少女の姿があった。
雨の中を傘も差さずに何かを見つめている幽霊の少女――冬子が。
一心に何かを見詰めている彼女は、まだ継春には気が付いていない。
どうするか数秒だけ迷い、継春は足の向かう向きを決めた。
ぴちゃりと足元の水溜りが跳ねる。
冬子が見ているのはどうやら庭先の花壇に植えられている紫陽花のようだ。
ただ、紫陽花はほころびかけてはいるものの、まだ咲いてはいない。
何をそんなに熱心に見ているのだろうと、継春は彼女の後ろで足を止める。
しゃがんでいる彼女の背後からそっと覗き込んでみた。
葉の上を小さな生き物がのたりのたりと進んでいるのが見えた。
「カタツムリ……」
継春が呟くと、冬子は慌てたように振り返った。
「継春くん! どうしたの?」
「ん……やっぱり俺も散歩に行こうかと思って……。冬子さんは……カタツムリの観察?」
「ええと……はい、なんとなく目に入って……久しぶりに見た気がしたので」
なんとなく二人ともまごついてしまっていた。
「継春くんは……どっちのほうにお散歩に行くんですか?」
立ち上がりながら冬子が尋ねる。
「とりあえず出てきてみたんだけど……どうしようかなって考え中、かな」
「ええと……あの、じゃあ……」
「一緒に、行く?」
「……ぜひ」
冬子ははにかみながら返事をした。
とりあえず近くの公園に行ってみましょうかと歩き出した少女の隣に、継春は並んだ。
そして歩きながら傘を少女の方へとわずかに傾けた。