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私の知る『外』は四角く切り取られた世界だけでした。
窓からわずかに見える木の枝と空だけが、季節の移り変わりや時の流れを教えてくれました。
生まれた時から身体の弱かった私は、人生のほとんどを病院のベッドの上で過ごしてきました。
ごくまれに、体調のすこぶる良い時などはお家に帰ることも許されましたが、それでもやはりベッドの上から出られることはありませんでした。
病院でもお家でも、ベッドに横になって眺めた景色しか記憶には残っていません。
両親やお医者さんたちは、大きくなれば身体も丈夫になって外に遊びに行けると幾度となく励ましてくれましたが、結局、私の身体はいつまでたっても病弱なままでした。
ベッドから離れてほんの少し立ち歩くだけで私の身体は悲鳴を上げました。すぐに熱が上がって寝込むことになってしまうのです。
お家でも病院でもベッドから離れられない私は、当然、学校に通うことなど出来ませんでした。
友達を作ることも遊ぶこともできない私のために、両親はたくさんの本を買い与えてくれました。
辞書や百科事典などの勉強するための本もあったのですが、一番多かったのはやはり物語が書かれた本でした。
ベッドの上から動けない私は、与えられるまま、貪るように本を読みました。
本を読むことで、決して経験することの出来ない様々な外の世界を私は知っていったのです。
狭い部屋と四角く切り取られた外、それから本の中に記された事物だけが、私の世界でした。
それ以上を知ることなく、私は短い命の火を消しました。
未練がなかったとは言いません。
外に出てみたかった。自分の足で歩いて、外の世界を見て回りたかった。学校に行って友達を作って一緒に勉強して一緒に遊びたかった。恋だって、してみたかった……。
やりたいことはたくさんありました。
それでも無理だと思っていました。
両親やお医者さんが私のために頑張ってくれていることはよく知っていましたが、期待してしまえばその分だけ悲しくなってしまうから。
しようがないと諦めていました。
諦める以外の術を私は持っていなかったのです。
ある時、長く続いていた痛くて苦しいのが急にふっとなくなって身体が軽くなり、私は自分がついに死ぬのだと分かりまし。
死にたくないと思いました。
それでもしょうがないと、いつものように諦めました。
その時に私は死んだのだと思います。
もしもあの時諦めなければまだ生きられていたのでしょうか。分かりません。
けれど、もし死ぬことを免れたとしても、ベッドの上の世界から出ることは出来なかったのですから、死ぬ時期が多少前後するだけで、何も変わることはなかったでしょう。
次に気が付いた時には、すでに私は幽霊になっていました。
幽霊になって、お家の外に立っていたのです。ほとんど暮らすことのなかった私のお家の玄関先に。
私が亡くなってからある程度の時が過ぎていたようで、お家は落ち着いていました。
お父さんは毎日朝早くからお仕事に出かけ、お母さんは家事をこなしながらパートに行っています。
あまりお家の中は変わっていないようでしたが、小さなお仏壇が増えていました。
当然、お父さんもお母さんも、幽霊になってしまった私には気が付きません。
寂しさを感じてもいましたが、それにも勝る嬉しさと興奮がありました。
自分の足で立って歩けていることが、外にいられることが、とても嬉しかったのです。
幽霊なので気温や雨風などを感じることは出来ませんでしたが、外の世界を見られるだけで、それだけで私には十分な喜びでした。
しばらくお家で過ごしてから、私は思い切ってお家の敷地から出てみました。
もう少しだけ、外の世界を見たいと思ったからです。
後に他の幽霊さんに出会ってそれはおかしい事なのだと教えてもらいました。普通の幽霊さんは特定の場所から動くことが出来ないのだそうです。
でも私はお家の敷地の外に出ることが出来ましたし、どこへでも歩いて行くことが出来ました。
とは言うものの、あんまり遠く――それこそ市の外へ出るほど遠くへは行ったことがないので、本当にどこまでも行けるのかは分かりません。
もしかしたら、普通の幽霊さんよりちょっとだけ私のいられる場所が広いだけなのかもしれませんね。
どうして私だけが他の幽霊さんと違うのか、難しいことは分かりません。
でも、私は幽霊になって、生きている間には叶わなかった外の世界を見て回ることが出来るようになったということは確かでした。
お父さんとお母さんから離れることに躊躇いがなかったとは言いません。
それでも私は外の世界へと好奇心を押さえ切れなかったのです。
季節が移り変わる景色を眺めながら街中を歩き回り、そして一軒のお家と出会いました
中心部から少し離れた住宅街の一角の、広いお庭のある小さい一軒家でした。
ちょうど季節は春で、沢山の草花がお庭を彩っていました。
一目で私はそのお家が気に入ってしまったのです。
誰も住んでいる様子のなかったそこに、私はこっそりと居させてもらうことにしました。
それが、ここ――今、修也さんと継春くん、それからトラコさんが住んでいらっしゃるこのお家です。
私がこのお家に居るようになってから少し経って、修也さんがトラコさんを連れて越してきました。
初めは、出て行ったほうがいいかなって考えていたんです。
私は幽霊で、大抵の人には私は見えませんが、やはり幽霊と一緒に暮らすのは嫌だろうからと思ったからです。
でも、その頃にはもうすっかりこのお家が好きになってしまっていて、離れがたく、修也さんが荷物を片付けたりしているのを邪魔にならないようお庭から未練たらしく眺めていました。
そこにトラコさんが足元に寄ってきて、触れない私の足元に身体を擦り付けるようにしてきました。
猫とまったく触れ合ったことのない私はどうしていいのか分からず、ただ立ち尽くしていることしかできませんでした。
やがて修也さんの声がして、トラコさんは足元を離れていきました。
私がほっとして見送っていると、彼女は開け放たれている居間の大きな窓の前で立ち止まってちらりとこちらを振り向きました。
そして一声にゃあと鳴きました。
それがまるでおいでと言ってくれているようで、私が居ることを許してくれているようで。
私はおずおずとお庭からお家の中を覗き込んでみました。
何もなくがらんとしていた居間には椅子やテーブル、食器棚、それから沢山のダンボール箱が運び込まれて、すっかり様子が違っていました。
もう一度修也さんがトラコさんを呼びました。
トラコさんはするりとお家の中に入ると、ひょいひょいとダンボールの上に登っていきます。
ちょうど居間に入ってきた修也さんはすぐにダンボールの上の彼女に気が付き、そんなところにいたのかと言いました。
それから私のいるお庭のほうに目を向けました。
私は少しだけドキドキしました。
見えるはずがないと分かってはいましたが、彼の視線の邪魔にならないようにと窓の横に避けました。
修也さんは眩しそうに目を細めながら良い庭だね、と笑ったのです。
私にはその笑顔こそが眩しくて、先程とは違う意味でドキドキしてくるような気がしました。
そして結局、私は出て行くことはせず、こっそりと居候させてもらうことにしたのです。
修也さんとトラコさんと、それから私が一緒に暮らすようになってから季節が巡りました。
春が来て、夏になり、秋が過ぎて、冬になり。
それを幾つも繰り返したある春の日に、継春くんがやって来たんです。