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放課後の美術室。
帰りのHRが終わってまだ間もないためまだ校内は騒がしく、ドアを閉めていても廊下の喧騒は耳に届いた。
それもあと三十分もすれば落ち着き、静かになるだろう。
本日一番に美術室にやって来た継春は、スケッチブックやペンをカバンから取り出して絵を描く準備を整えながら考え事をしていた。
何をかといえば、新しくキャンバスに描き始める絵のことである。
物を出し終えて椅子に座る。
何を描き、どんな絵にしようかと、スケッチブックをぱらぱらとめくってみながら思いをめぐらせる。
スケッチブックはすでに半分以上が埋まっている。
その大部分が草花や樹木、街並みなどの風景のスケッチだ。
ぱらぱらとめくっていた手が止まった。
雨に濡れる植物のスケッチが描かれたページである。
先日、雨が降った時に描いた下宿させてもらっている叔父の家の庭の風景だった。
あの庭の絵を描くのも良いかもしれないと思う。
草や花が好き放題伸びていて一見すると雑然とした庭だが、季節の移り変わりに伴い色々な表情を見せてくれるのでなかなかに面白いのだ。
まだ春から夏、そして秋に向かおうとしている今の時期の光景しか目にはしていないが、それでも日ごとに違った姿を見せてくれている。
家の庭からの連想でふとある顔が浮かぶ。
まだ短い付き合いながらも、夏休みの間ほぼずっと一緒にいたため、ずいぶんと急速に馴染んでしまった彼女――トウコという幽霊。
このスケッチを描いていた時も隣に座っていた。
ふと思い立ってスケッチブックを一気にめくり、白紙のページを開く。
ペンを手に持ち、さっと滑らせる。
記憶を頼りに、彼女の姿を描いてみる。
両肩に垂れる緩く編まれた三つ編み。髪は少しぱさついている印象。着ているのは白い丸襟の、少し昔風の黒いワンピース。服からのびる身体はどこもかしこも細く白い。靴は履いておらず、靴下さえ身に着けていない。
顔は……笑顔。
大きく笑っているところはあまり見ない。
いつも静かに微笑んでいる印象だ。
微笑む以外の表情を知らないのではないかと思うほど、他の表情を浮かべない。
ただ、その微笑にささいな感情を紛れ込ませてはいる。
見慣れたおかげで気付くことのできた、本当にささいな違いだ。
嬉しさ、楽しさ、戸惑い、寂しさ、諦め。
おそらく多いのは後半のもの。寂しさや諦めが含まれた笑み。
彼女が自分から何かをしたいと望むことはない。
それは幽霊という己の存在をきちんと認識しているためだろう。
だから望みを口にあげることはせず、代わりに寂しさや諦めといった感情をわずかに混ぜて微笑む。
休みの日に出かける時も、彼女から一緒に行きたいと言うことはない。誘うのは継春だ。
出かける用意をする継春を彼女はいつもの居間の窓辺に座って眺めている。少しの諦めを含んだ笑みを添えて。
それを彼はもどかしく思う。
一緒に行きたいなら行きたいと言えばいいのにと思う。
二人で出かけることが習慣のようになっているのだから、今更断ったりなんてしないのに。
笑うのならばちゃんと笑って欲しいと思う。
寂しそうに、諦めたように笑われると、なんだか悔しかった。
継春はペンを置いた。
「時田くんが人描くのって珍しいね」
一息吐いた所で声をかけられて継春は身体を過剰に跳ね上げる。
「あ、先輩……」
彼の座る目の前の席に美術部の先輩が座っていた。
「驚かせちゃった?」
笑いながら先輩は言う。
「集中してるみたいだから邪魔しちゃ悪いなぁって思って声かけなかったんだけど……目の前に座っても気が付かないと思わなかったわ。ごめんね」
それだけ描くことに集中していたということでもある。
「いえ……」
継春は決まり悪げに言葉を濁した。
自分でもそこまで夢中になるとは思わなかったのだ。ほんの気まぐれ……手慣らしのつもりだった。
それが、気が付けばスケッチブックの一ページが彼女の姿で埋まっていた。
「この子、誰かモデルいるの?」
「え、あ、えっと」
自分と彼女の関係というものを今まで考えてきたことはなく、継春は一瞬だけ答えに迷う。
「……友達です」
「あれ、彼女じゃないんだ」
「ち、違います!」
からかうような先輩の言葉に慌てて否定すれば、楽しそうに声を上げて笑われてしまった。
少しして笑いを収めると、先輩は真面目な顔付きになる。
「でも時田くん前より人描くの上手くなったんじゃない?」
「……そうですか?」
画面上の彼女の姿を見ても自分ではよく分からない。
「うん、なんて言うのか……表情がちゃんとモデルに伴ってるって感じ。前はそれが若干ずれてて、そのせいで雰囲気がちぐはぐになってたような気がする」
継春は瞬きをする。
「先輩って……案外よく見てるんですね」
「案外ってなによ、失礼ね!」
先輩は怒ったような素振りをする。だが目は笑っているので本気ではない。
継春も笑いながら謝った。
そうこうしている内に美術部員たちが次第に集まり始めていた。
先輩も他の部員に呼ばれて行ってしまう。
継春は改めてスケッチブックの上に視線を落とした。
ほんの手慣らしのつもりだったはずなのだが……。
紙の上で彼女は微笑んでいた。
継春は一つ息を吐いた。
まっさらな新しいページを開く。
ペンを再び持つ。
先程のように思いつくままに描いていくのではなく、考えながら紙の上にペンを乗せる。
丁寧に、けれど物の形は逆に簡略化されて大まかな形のみとなっている。
頭の中にひらめく何かを逃さないように彼はペンで追いかけていく。
継春はすぐ側で交わされている部員たちの会話も耳に入らなくなっていた。