夏空

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 私は階段を降り、玄関で靴を履き替えて外に出た。
 空にはあの日のあの青さはどこにもない。瞼に焼き付いて放れないあの空は。
 ため息を一つ吐いて、私は朝来た道を戻り始めた。
 本当は学校に来る意味さえもない。
 けれどやるべきことも思いつかなくて、何となく前と変わらない日々を送っている。
 変わらない日常。けれど変わってしまった日常。
 一つ、たった一つ違うだけでこんなにも変わってしまうのだと、私は知った。
 もう決して戻れない。
 戻りたくても、戻れない。
 屋上での彼女の言葉は私の言葉だった。
 私はいったい何をしているのか。
 何故、ここにいるのか。
 未練がないとは言わない。けれどそんなことは誰であろうと当然のことで。なのに私だけがここにいて。
 何故私はここにいるのか。
 泣くことも、怒ることも、疑うことも、すべて最初にやった。
 どんなに疑問を投げかけても、答えをくれる人など、どこにもいなくて。
 前と変わらぬ風を装いながら、けれど確実に変わってしまった毎日を送り続けている。
 何も変わっていないのだと、薄っぺらな嘘で自分を騙して。
 信号が赤になって私は足を止めた。
 何でもない十字路。
 けれど誰が置いたのか、邪魔にならないように電信柱のところに花が供えてある。
 それはここで事故が起こったことの証拠。
 人が死んだことの、証。
 もう、何も思わない。
 あれを見て心を揺らした時期もある。
 けれど、もう何も思わない。
 決して強くなったわけではないし、乗り越えたわけでもない。
 敢えて言うなれば、慣れ。
 思い知らされることはそこら辺に溢れていて、その度ごとに心を揺らすのに疲れでしまったから。
 何も思わなくなった。
 思わないように、した。
 私はため息を吐いた。

「おねえちゃん」

 幼い声にはっと我に返れば、もう信号は青になっていた。
 そしてこちらをじっと見上げてくる小さな子供がいた。

「おねえちゃん、寒くないの?」

 真っ赤なダッフルコートを着た子供。
 まだ何の色にも染まっていない綺麗な心の女の子。

「あのね、さちのてぶくろ、かしてあげるよ」

 手袋は薄いクリーム色の小さなミトン。
 笑って頭を軽く撫でる――振りをする。

「ありがとう。大丈夫」

 たったそれだけのことに心が温かくなった。冷え切った心に暖かな火が灯る。
 たったそれだけの優しさが、泣きそうなほど嬉しい。
 じわじわと心の熱は広がり、全身に行き渡っていく。
 沈んだ心が浮上する。
 寄り道をしながら、家に帰ろう。
 私は横断歩道とは別の方向に足を踏み出した。
 前はやりたくてもやれなかったことをしよう。
 第二の人生だと思えばいい。
 楽しまなければ損だ。
 やってみたかったことをやろう。
 地下鉄に乗って街に出て、入るのを躊躇っていたお店に入ろう。展望台にも上がって街をながめよう。
 そうだ、楽しめばいいんだ。
 何が変わったって言うんだ。何も変わらないじゃないか。
 ただの欺瞞ではなく。薄っぺらな嘘ではなく。
 私はここにいて、こうして動いてる。物にだって触れるし、ドアを開けないと中にも入れない。
 何も変わらない。
 生きてるモノには触れないし、他の人には私は見えないけど。お腹がすいたり、暑さ寒さを感じたりすることも出来ないけど。
 それでも、もとから友達は少なかったし、そのほうが面倒くさくなくて都合がいいことも多い。
 前向きに考えよう。
 考え方を変えればいいんだ。
 多少、寂しさを感じても。
 私が私としてこうしてここにいる。それだけで十分だった。
 たいして前と変わらない。
 ならば楽しめばいいんだ。
 何も買えないけど、キラキラのアクセサリーをいっぱい見よう。いろんな服も見よう。もちろん本屋に行くのも忘れないで。
 やれなかったことを、しよう。
 やりたかったことを、しよう。