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夏空

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 ――キーンコーンカーンコーン

 チャイムの音にはっと気がつけば、時計は何故か十二時三十五分を示していた。
 本はあと十数頁といった所。さすが三時間目も四時間目も犠牲にしてしまっただけのことはある。
 しかし美術と古典は出たかったのに、とうな垂れて思う。
 経験上、自分が何か一つのことに集中してしまうと周りが見えなくなってしまうのは百も承知のことだった。だから気をつけてはいたのだが、いつの間にか読むことに没頭してしまっていたようだ。
 しかしこれでは学校に来た意味がない。
 何せ五・六時間目は数学と化学。嫌いな科目だ。
 実は初めから美術と古典だけ出て、他はサボるつもりだった。それなのにこれでは本当に学校に来た意味がない。
 どうせなら全部サボってやろうかとやけくそ気味に思う。
 一つ息を吐き、本を閉じる。
 残りの十数ページは後でのお楽しみに取っておくことにする。
 ちょうどその時一年生の図書局員が二人、楽しそうに話をしながら司書室のドアから入ってきた。一人はカウンターに座り、もう一人は廊下の方の鍵を開けて閉館中の札を裏返して開館中に変えている。
 私はそろそろ場所を変えようかと、本をしまって立ち上がった。
 早速、一般生徒が今開けたばかりのドアから入って来る。よく図書室で見かける二年生だが、名前は知らない。ただ、よく本を借りていく。
 きっと向こうも私のことを知っているだろう。私もよく図書室にいたから。
 黙ってその横を通り抜ける。
 誰も声をかけてこない。
 誰も、私には気付かない。
 廊下に出ると、昼休み独特の喧騒に包まれた。
 歩きながら、そういえば新しい本の中に私が購入希望を書いた本もあったなと、思い出す。
 あの本はいつ図書室に入るだろうか。バーコードも透明なカバーも掛かっていなかったからまだ先だろうか。
 そんなことを考えながらぼんやりと歩いていたせいか、角を曲がった所で人とぶつか――らなかった。
 相手は何事もなかったように通り過ぎていく。
 その後ろ姿から、自分の手のひらに視線を移す。
 見ず知らずの誰かから思い知らされている気がする。
 けれどもうそんなことは存分に思い知っている。
 もう、大分慣れた。
 顔を上げて階段を登る。
 無性に空が見たかった。
 空から見える四角い空ではなく、広い、果てのない青い空が――。



 屋上のドアの鍵が昼休みだけ開けられるのを知ったのは最近になってからだ。
 限られた人にしか、屋上の鍵は開けられない。先生か、事務員さんか、屋上を使う部活動の生徒か。
 昼休みごとに鍵を開ける彼女が何部か、私は知らない。
 彼女は私よりも少しだけスカートが短く、ショートの髪はうっすらと茶色い。天然ではなく、染めた色。それも光に当ててみてわかる程度の。
 今だけを楽しむ不真面目な子にもなりきれず、先だけを見ている真面目っ子も演じきれない。普通の、子。
 いつも彼女は遠くを見ている。ただ遠くを見て、フェンスを握りしめる。
 私は彼女から少しだけ間を空けてフェンスを背もたれに座り込む。
 それがいつもの場所。
 校内のざわめきもここでは遠い。
 ひとつ伸びをしてからカバンからみかんを取り出した。
 私は彼女のことを何も知らない。そして彼女は私を知らない。
 同じ場所を共有しているだけの一方的な顔見知り。
 私は彼女の行動を妨げず、彼女も私の行動も妨げない。
 彼女はただ遠くを見つめ、私はただ空を眺める。
 空は朝よりも曇っている気がした。
 ぼんやりとみかんを口に運ぶ。

「私、何してるんだろ…」

 稀に呟かれる言葉は、誰への問いかけでもない。ただの彼女の独り言。
 みかんは、すこし酸っぱかった。
 時計を見る。
 一時十分。
 私は立ち上がってスカートを払った。
 やはり五、六時間目はサボってしまおうと思う。
 もう一度灰色の空を眺め、こちらを見ることのない彼女を、見た。
 彼女が何を見ているのか、私は知らない。
 彼女が何を思っているのか、私は知らない。
 それでも。

「でも、あなたは生きてる」

 囁くように呟く。
 届かないとわかっていても、それでも。
 皮肉ではなく純粋にそう思う。
 『生きていればいいこともある』なんて、陳腐な言葉。けれどそれは確かに真実で。
 何も知らない彼女に声援を送りたくなる。
 頑張って、と。
 負けないで、と。
 私は彼女に背を向けて、一足先に騒々しい校内へと戻った。
 スピーカーから流れる流行の音楽。廊下を走り抜けていく男子。教室のドアの所で立ち話をする女子。窓から身を乗り出している生徒を注意する先生。
 そこには何も変わらない日常が存在している。けれど、もうそこに私が含まれることはない。
 失って初めてわかると言うように、あれは幸せだったのだろう。退屈で、何も変わらない日常こそが。
 では今は幸せではないかなんていうことはわからないが、ただ、あの日々は間違いなく幸せだったのだと、確信を持って思う。