夜の帳。空に月はなく、星の光さえも締め出すように雲が厚く立ち込めている。
動植物は寝静まり、穏やかに吹いていた風もぴたりと止んだ。
煩いまでの静寂の中、ひたひたとひたひたと闇が世界を覆っていく。
光を完全に締め出したその瞬間。世界が一変する。
命は眠り、闇が動き出す。
闇に蠢く者たちが一時の解放に静かな咆哮を上げ、世界中を駆け巡る。
家の庭先に男が一人。長く猛る髪を闇に溶かし、面で顔を覆い、閉じられた雨戸に向かって立っている。
待っている。
時が来るのを。
そして長い沈黙の後、かたりと音を立てて雨戸が小さく開けられる。
男は促すように両手を差し出す。
かたりかたりとさらに音を立てて雨戸は人一人通れる程の隙間をつくった。
まず覗いたのは白い指先。
差し出された男の手に重ねられる。
そしてゆっくりと姿を現したのは目を閉じた一人の女。真っ白な肌に闇に溶ける髪。
男の手をしっかりとにぎると、女はそろりと地面に足を降ろした。
固い地面を踏みしめて顔を上げる。
闇の中で女だけが光を受けたかのようにほのかに輝いている。
そして目を開く。
ゆっくりとその目に闇を写し取る。首を巡らし、すべての闇をその瞳の中に閉じ込めていく。
最後に映したのは男の面。
女はふわりと微笑み、面へと手をかける。
その手を男はやんわりと握るが、女は首を振り、そっと面を取り除く。
現れたのは血の双眸。不安に彩られた異形の瞳。
けれど女は笑みを深くして囁いた。
「あなたの名前を教えて」
闇という名の光が、静かに生まれた瞬間。
終わり