太陽が顔を出してまだ間もない時間帯。
アーリヤはひっそりと部屋を抜け出していた。
「うぅ……もう無理……もう嫌だ……もう一年学院にいるう……」
目の下に隈ができ、少しばかりやつれた様子である。
毎日毎日朝から晩まで字ばかりを追う生活にアーリヤはいい加減嫌気が差していた。もともとが、じっとしているよりも体を動かす方が好きな性格なので、今までどうにか逃げ出さずに耐えてきたのが奇跡みたいなものである。本を読んでる間はエリュアールに見張られていたので逃げたくとも逃げられなかったと言うのもあるのだが。
だがそれももう我慢の限界である。
そこでアーリヤはエリュアールが部屋にやって来る前に逃げ出してきたという次第なのだ。
誰にも見つからずに寮を出て、さてじゃあどこに逃げようかと一歩足を踏み出した瞬間、アーリヤは固まった。
「こんな朝早くから、どこに行くんですか」
にっこりと微笑んだエリュアールが目の前に立っていた。
「ああああああああああああああああああああああのその、さ、散歩」
ぎくしゃくとアーリヤも口角を上げてどうにか笑顔を浮かべる。
「そうですか。ではちょうど良いですね。ずっと部屋にこもってばかりでは不健全なので今日は気分転換に屋外での実習にしようと思ってたんです」
「へ、へぇ〜」
エリュアールから視線を外さないまま、アーリヤはじりっと一歩後退した。
けれどその分、エリュアールが一歩前に出る。
「まさか、逃げようなんて思ってないですよね」
「あははははははははははははははははははははは」
一歩後ろに下がる。
一歩前に出る。
共に笑顔を浮かべているものの、二人の間には妙な緊張感が漂っていた。
ざぁっと風が吹いた次の瞬間――アーリヤが動いた。エリュアールに背を向けて全速力で逃げ出したのだ。
「もう嫌ーっ!」
成績においてはエリュアールの方が断然優位であるものの、体力面ではやはりアーリヤの方が勝っている。そんなアーリヤに全速力で逃げられればエリュアールには到底追いつけやしない。しかしエリュアールは慌てることなく、また追いかけようとする様子も見せず、すっと地面に片手をついた。
「聖霊よ、彼の者を留める足枷となれ(セディ・ラ・シャイネ・オウ・サン・テスプリ・テッレ・ラレトゥ)」
エリュアールがそう唱えた途端、アーリヤは走っていた勢いのまま思いっきり転んだ。
「うぅ……なにぃー?」
見れば土が不自然に盛り上がり、その中に足が埋まっている。抜こうとしても抜けず、土を崩そうとしてもどうやっても崩れない。
「なんで〜?」
アーリヤがじたばたしていると、土に埋まった足に誰かが触れた。
エリュアールである。
アーリヤは顔を真っ青にした。
「あのあのあのあのあのあのあのあのあの…………」
「解けたまえ(ピュート・ディフィーア)」
その言葉に反応して土は崩れ、アーリヤの足は解放されたものの、今度はエリュアールがしっかりと拘束している。
「私から逃げられるとでも?」
エリュアールがにっこりと微笑んだ。
分厚い本を何冊も読み、エリュアールお手製の分厚い問題集を解き、学院の裏の森に行っては片っ端から植物の名前を調べ、耐え切れなくなってアーリヤが逃げ出したり、それをエリュアールが術を使って捕まえたり、そんなこんなで一ヶ月が経ち、いよいよ定期試験の前日となった。
相も変わらずアーリヤの部屋で二人は顔をつき合わせている。同室の女子生徒は実技の練習をしに行っているためにいない。
「いよいよ明日から定期試験が始まります」
やはり寝台の端に座るアーリヤの前に立ってエリュアールは言った。
「やっと一ヶ月経つのかぁ〜!」
「この一ヶ月徹底的に叩き込んだんですから意地でも五割は確実に取ってくださいね」
「はぁい」
エリュアールはそうしつこく言うものの、アーリヤはやっと地獄から開放される喜びに舞い上がり、まったく耳には入っていないようである。
それもしょうがないことかと、無理をさせた自覚があるエリュアールは、軽くため息を吐いた。
「今日は明日に備えて十分な休養を取ってください」
「それって今日は何もしなくていいってことだよね? 本も読まなくていいし、問題集もやらなくてもいいってことだよね?」
目をキラキラさせて聞いてくるアーリヤにエリュアールは頷く。
「何もしないのが不安だと言うなら問題集も用意してますが」
「いいいいいいいいいいいいいいいです! 大丈夫! 全然不安じゃない!」
エリュアールが今にも分厚い問題集を取り出しそうで、アーリヤは慌てて首を振った。
「そうですか」
何だか少し残念そうにエリュアールは鞄から手を離した。
「あ、あのさ!」
やはり問題集を――とエリュアールが言い出さないように、アーリヤは話題を変えた。
「なんでエリュは私の勉強見てくれたの?」
「初めにも言ったでしょう。フェデ教官から依頼を受けたからです」
「でもさでもさ、エリュにとってはなぁんにも利点はないでしょ?」
口に出してみると思いのほか気になりだしたので、アーリヤはどうしてと首を傾げた。
「私は自分に利点がない限りは動かないような人間に見えますか」
「え、じゃあ……」
純粋に善意で勉強を見てくれたのかと、驚いたように聞けば、エリュアールはさらりとこう言った。
「まぁ、フェデ教官に好きな組織への紹介状と推薦状を書いていただく約束をしているんですけどね」
そして更ににこりと笑うと、
「頑張って下さいね」
ぽんとアーリヤの肩を叩いた。
けれどその笑顔の裏に、五割以上取らないと殺すという言葉を読み取って、アーリヤは真っ青になったのだった。
ある晴れた日の昼下がり。
定期試験も無事に終わり、明日からは生徒たちが待ち望んだ長期休みが始まる。試験が終わった安堵と休みへの期待感から、少し浮ついた空気が学院の構内に満ちている。
けれどそんな空気の中、ただ一人、緊張した面持ちで扉の前に立つ女子生徒がいた。
アーリヤである。
フェデ教官に試験の結果を聞きに来たのである。
やはりアーリヤは取っ手をまるでそれが倒すべき敵であるかのように鋭く睨みつけている。
「いつまでもそんな物を睨みつけてないで入ったらどうです」
一緒に付いて来たエリュアールが呆れたように言った。
「うぅ……だって怖いんだもんー」
「何を言ってるんです。自分でもかなりの手応えを感じたと言っていたでしょう」
「そ、そうだけど……」
まだぐちぐちと言うアーリヤにエリュアールは大きくため息を吐く。
「この私がみっちりしっかり一ヶ月しごいたんです。もっと自信を持ちなさい!」
ぴしゃりと言い放つエリュアールをアーリヤはちらりと横目で見た。
「うー……」
だから結果を聞くのが怖いのだとは流石に言えないアーリヤだった。
もし、万が一、ひょっとして、五割に届かない科目が一つでもあったら……。
いや、大丈夫だと、どうにか自分に言い聞かせてアーリヤは取っ手に手をかけた。
「魔導士科のアーリヤ・ティーヴァです」
「魔導士科エリュアール・バウエル入ります」
扉をくぐり、本の壁を抜けて机の前で立ち止まる。
フェデ教官は今日も何か書き物をしていたようだが、二人が入ってきたのを見とめると、すぐに手を止めて紙を脇へとよけた。
「あの、試験の結果を聞きに来たんですけど……」
不安そうにアーリヤが言うと、フェデ教官は頷いて机の引出しの中から数枚の紙を取り出した。
採点されたアーリヤの答案用紙である。
「がんばりましたね。今までの点数が嘘のようです」
「それじゃ……」
広げられた答案の右上に書かれた数字はどれも五割どころか七割や八割と、今までにアーリヤが一度たりとも取ったことのないような点数が書かれている。
「やったっ!」
アーリヤは喜んで歓声を上げ、エリュアールも当然と思いつつも小さく安堵のため息をもらした。
しかしそんな喜びや安堵も次の瞬間には消えうせることとなる。
広げられた答案用紙の上に置かれた一枚の答案用紙。その右上には大きな丸、いや、零が書かれている。
「ううううううううううううううううううそぉっ!」
アーリヤの顔から血の気が一気に抜けた。
そんなアーリヤにフェデ教官は少しばかり気の毒そうに告げる。
「これも本来ならば他の答案と見劣りしない点数が付くのですが」
「じゃ、じゃあなんで……!」
「名前が書かれていないからです」
フェデ教官の言う通り、たしかにその答案用紙にはどこにもアーリヤの名前は書かれていなかった。
隣から突き刺さるような冷気が漂ってくるのをアーリヤはひしひしと感じていたが、恐ろしすぎてそちらを窺うことさえ出来ない。
アーリヤはものすごい勢いで今までの自分の人生を悔いた。
けれど今更そんなことをしようと後の祭りというもので、目の前の答案がなかったことになるわけもなく、エリュアールがこの結果を許してくれるわけもなく。
アーリヤは死を覚悟した。
「ですが」
場の雰囲気を変えるように、フェデ教官はこほんと一つ咳をする。
「この答案が貴女の物であるのは明らかですし、実際の点数としては問題なく、それに先に無理を通したのはこちらですので、良いということにしましょう」
にっこりとフェデ教官は微笑んだ。
「え、あの、ほんとうに……?」
話の急激な展開に追い付けずに呆然と訊ねるアーリヤにフェデ教官は頷き、もう一度、がんばりましたねと言った。
「よかったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
アーリヤは安堵して崩れ落ちただった。
こうしてアーリヤの今年度の卒業が確定した。もちろんエリュアールとフェデ教官との約束も無事果たされた。
しかしこの後アーリヤは延々エリュアールに説教されることとなるのだが、それはまた別の話。
終わり