聖霊の試練

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 ある晴れた日の昼下がり。
 一人の女子生徒が扉の前に立ち尽くしていた。
 手は取っ手の直前まで伸びているものの、まるで見えない壁に阻まれているかのようにわなわなと震えるばかりで一向に掴もうとしない。また淡い緑色の瞳もまるでそれが倒すべき敵であるかのように取っ手を鋭く睨みつけている。

「貴女はそんな所で何をやっているんですか」

 そんな女子生徒――アーリヤの様子に、ちょうどそこにやって来たもう一人の女子生徒が呆れたように言った。

「あ、エリュ!」

 立ち尽くしていたアーリヤは助かったというように表情を崩した。

「いっつもここに来ると怒られてるからなんか入りにくくて」
「怒られるようなことをする貴女が悪いんです」

 えへへと笑いながら言うアーリヤに、後からやって来た女子生徒――エリュアールはぴしゃりと言うと、さっきまでアーリヤが睨みつけていた扉の取っ手にすんなり手をかけた。

「魔導士科エリュアール・バウエル入ります」

 扉を開けてさっさと中に入っていくエリュアールに、アーリヤも慌ててついて行く。

「魔導士科のアーリヤ・ティーヴァです! ちょっと待ってようー」

 二人が入ったのはそれほど大きくはない、どちらかと言えば小さな部屋である。壁はすべて隙間なく置かれた本棚で埋まっていて、余計に圧迫感を感じる部屋だった。
 その本棚の壁の奥、部屋唯一の窓の前に机が置かれている。そこに座っているのは白髪混じりの灰色の髪をした一人の老婦人である。入ってきた二人には目もくれず、大きな銀縁の眼鏡をかけ、分厚い本を横に積み上げて、紙に何かを書き記している。
 エリュアールは机の手前で立ち止まり、アーリヤもその横に並んだ。

「フェデ教官、お呼びでしょうか」
「少し待ちなさい」

 しわがれた声でそれだけ言うと、老婦人――ナリス・フェデ教官は再び視線を落として洋筆を走らせ始めた。
 エリュアールは背筋をピンと伸ばし姿勢よく立っているが、アーリヤは落ち着かない様子できょろきょろと周囲を見回している。
 しばらくしてフェデ教官は洋筆を置くと、今まで何事かを記していた紙を二つ折りにして封筒の中に収めて封をした。それから眼鏡を外して、ようやく顔を上げて二人の顔を見た。
 きょろきょろしていたアーリヤは慌てて姿勢を正す。

「待たせてすみません。まずはアーリヤ・ティーヴァ」
「は、はいっ」

 名前を呼ばれてアーリヤは上ずった声で返事をした。

「貴女の方の用件を片付けましょう」
「うぅ……はい……」

 フェデ教官の暗緑色の瞳を向けられて、アーリヤはあまり大きくはない体をさらに小さくした。今まで散々怒られてきたせいだろう。半ば条件反射である。

「アーリヤ・ディーヴァ、次の定期試験で五割以上の点数を取らなければ、成績不十分として卒業を一年延期します」
「どういうことですか」

 当の本人であるアーリヤよりも早く、エリュアールが反応した。

「卒業試験を受けた者はその年度のそれ以降の定期試験は免除されるはずです」
「ええそうです。エリュアール・バウエル、貴女の言う通りです。そしてアーリヤ・ディーヴァは卒業試験を受けました。貴女と組んで。大変良い結果でした。しかし」

 フェデ教官はそこで一度言葉を区切り、鋭い視線でアーリヤを貫いた。
 それにアーリヤは怯えたように一歩後退る。学院で一・二を争う剣の腕を持ち、野生の凶暴な熊や狼にでも怯むことなく向かっていくアーリヤでも、フェデ教官の前ではまるで子兎のようだった。

「今までの試験の成績が悪すぎます! 追試験を受けずにすんだことは一度もなく、追試験でさえ点数が半分も取れないなど、前代未聞です!」

 それを聞いてエリュアールも眉をしかめて隣で小さくなっているアーリヤを睨んだものの、一応は助け船を出した。

「ですが魔導士とは術を使えてこそ魔導士です。その点で言えばアーリヤは実技に関してだけは人並みに使えています。ならば魔導士としての資質には何ら問題はないはずです」
「確かに知識がすべてとは言いません。ですが知識のない魔導士など三流以下です。そんな者を世に送り出すなど、学院の古き伝統と誇りにかけて許せません!」
「ですがたとえ一年卒業が延びたとしても、このアーリヤ・ディーヴァにフェデ教官の望む程度の知識が付くとも思えませんが」
「そうですね。私もそう思います」

 横と前、両方向からの攻撃にアーリヤは小さくなって耐えるしか術はなかった。
 一方、エリュアールとフェデ教官はそんなアーリヤの様子などまったく気にせず、互いに目を合わせて一つ頷いた。

「それが、私の用件ですね」
「そうです。お願いできますね」
「もちろんです」

 にこやかに笑う二人がアーリヤにはとても恐ろしいもののように見えた。



 次の日、エリュアールは朝早くから寮住まいのアーリヤの部屋を訪れていた。
 エリュアールが戸を叩いた時、アーリヤはまだ寝ぼけ眼だったが、同室の女子生徒は今日からしばらく実習があるのだと早々に出かけていってしまった。  部屋にはエリュアールとアーリヤの二人だけ。
 アーリヤは寝台の端に座り、目の前に立っているエリュアールを見上げた。

「あのう、なんでエリュがいるの?」
「昨日の話を聞いていなかったんですか」
「ええと……、次の試験で点数、半分以上取らなきゃいけないんだっけ?」

 困ったように眉尻を下げたアーリヤに、エリュアールはゆったりと、にこやかに、綺麗な笑みを浮かべる。

「そうです。そのために試験までの一ヶ月間、貴女の勉強を私が見ることになったんです」

 アーリヤは嫌な予感を覚えた。

「エリュが、教えてくれるの?」
「ええ。フェデ教官から依頼を受けた以上、絶対に一ヵ月後の試験で貴女に五割以上の点数を取らせてみせます」
「お、お手柔らかに……」

 もごもごと言葉を濁して視線を逸らしたアーリヤに、早速エリュアールは分厚い紙の束を渡した。

「とりあえず貴女の基礎知識量を知りたいのでその問題集を今日中にすべてやってください」
「今日中!?」

 アーリヤはぎょっとして紙の束を膝の上に取り落とした。
 どう見ても問題集は軽く五百枚ぐらいはありそうな感じである。

「これを、今日中に!?無理!絶対無理だよ!」

 悲鳴を上げるアーリヤに、けれどエリュアールは微笑んだまま、

「休まずやれば終わります」

 そう言った。

「ええええええええええええええええええええっ!」

 こうしてアーリヤにとっての地獄の一ヶ月が幕を開けたのだった。



 次の日も朝早くからエリュアールはアーリヤの部屋を訪れた。

「今日から本格的に始めます」

 昨日のように寝台の端に座ったアーリヤの前に立ってエリュアールは宣言した。

「昨日からもうすでに十分本格的だよう……」

 そうアーリヤがこぼすと、エリュアールはまるで心外だとでも言うように肩をすくめる。

「あれは貴女の知識量を知るための物ですから、言わば体力測定のようなものです。あんな物でへばってもらっては困ります」
「あれで体力測定……」

 じゃあ本格的になったらいったいどうなるのか、そう考えてアーリヤは身を震わせた。

「とりあえず今日はこれを読んでください」

 そう言ってエリュアールが鞄から取り出したのは一冊の本だった。

「ふえ? それだけでいいの?」

 拍子抜けしてエリュアールを見上げたアーリヤだったが、エリュアールは鞄から次々と本を取り出し、計六冊の本をアーリヤに渡した。

「今日中に読み終わってください。それから読む時は声に出して読むように」
「うええええええええええええええええええええっ! 無理だよ、こんなに厚い本! それも六冊も!」
「休まず読めば終わります」

 悲鳴を上げるアーリヤにエリュアールはぴしゃりと言った。



 次の日もエリュアールは朝早くからアーリヤの部屋にやって来た。

「今日はこの本を読んでもらいます」

 そう言ってエリュアールは鞄から本を六冊取り出した。

「これも、今日、一日で?」

 上目遣いで恐る恐る聞いたアーリヤにエリュアールは頷いた。
 本はどれも昨日と同じくらいの厚さか、それ以上である。
 アーリヤはがっくりと肩を落としてため息を吐いた。

「ため息を吐いている暇があるならさっさと読む!」

 エリュアールに促されてアーリヤは本を開いて音読し始めた。



そんな毎日がさらに三日続いた。