夏空

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 トントントントントン……
 カチャン
 パタパタパタ……
 ガチャッ
 札幌地方の天気は……
 バタンッ



 朝、私は階下の物音で目を覚ます。
 六時四十五分。
 起きた瞬間に時計に目が行ってしまうのはもう長年の習慣だ。この時間に起きるのも、そう。
 私はまだ霞のかかる頭でゆっくりと起き上がる。
 その途端にカーテンの隙間から光が細く部屋の中に差し込んでいるのが目に入った。その光は整頓された机の上を照らしている。
 何とはなしにつっと光の当たっている部分を指で一撫でしてみた。毎日掃除されているせいか、埃はまったくない。
 もう一度壁にかかっている時計を見る。
 長針は九と十の間。
 眠気を振り切るように一つ伸びをしてから制服に着替える。
 白い長袖のブラウス、紺のベストと薄くチェックの入った紺のスカート、ワンタッチでつけられる校章の刺繍のはいった赤いネクタイ。
 ブラウスのボタンは上まできちりと、袖まで留める。スカートは膝下五センチ。ルーズソックスなんて物は持っているわけもなく、ただの紺のハイソックスを履く。
 部屋を出る直前にもう一度、壁の時計を見た。
 七時、ちょっと前。
 階段を降りると父がトイレから出てくるところだった。

「おはよう」

 父は新聞を片手に、私に気付かなかったように居間のほうへ歩いて行く。私はその後ろ姿を黙って見送る。
 ふと、足元がこそばゆい気がして視線を下げた。
 飼い猫のエリファスが足にまとわりついている。小六の誕生日にねだってねだってどうにか買ってきてもらったロシアンブルーのオス。名前はその時好きだったマンガのキャラからとった。

「おはよう」

 それに応えるようにエリファスは一声鳴いた。
 この愛猫だけはいつだって私の言葉に応えてくれる。
 喉元を軽く撫でてやり、そのまま足にまとわりつかせながら洗面所に向かう。途中台所を横切って母にも声をかけたが、やはり返事は返ってこなかった。
 洗面所の鏡を覗きこみ、髪をブラシで梳かす。幾度か友達に綺麗だと言われたことのある少し茶色がかった黒い髪。  背中の真中辺りにまで伸びた髪は、正直言うと少しうざったい。それでも自分には短いよりも長いほうが似合っているような気がして、意味もなく長く伸ばしている。
 髪を結ぼうとベストのポケットからゴムを取り出したが、それはもう伸びきって中で切れていた。そのことに気付いてしまうと、そのゴムを使う気にはならなかった。
 鏡の中の自分を見る。長いストレートの髪を無造作に垂らし、制服を堅苦しく着た、つまらない女。
 ゴミ箱に伸びたゴムを捨て、ネクタイを外してスカートのポケットに突っ込む。ブラウスは上の二つのボタンを外し、袖を肘の辺りまでまくりあげる。スカートも折り込んで膝上にする。
 どこにでもいる、流行を追うだけの頭の悪そうな今時の女の子。けれどどこかぎこちない。
 足元でエリファスが鳴いた。
 不思議そうにこちらを見ている。
 何となくすごく気恥ずかしくなってすぐにもとに戻した。
 堅苦しくても、つまらなくても、これが一番自分に合っているような気がする。
 なんとなく、そのことに満足しながら顔を洗う。ようやくちゃんと目が覚めた気がする。
 七時十分。
 タオルで顔を拭きながら、ベストのポケットに入れっぱなしの腕時計を見た。
 いつも時間に追われる生活をしてきたからだろうか。時間を気にしなくていい時でさえも、こまめに時計を見てしまう。それはもう癖だった。

「ご飯ですよ」

 声につられて居間を覗いくと、母がご飯をよそっているところだった。父は読んでいた新聞をたたみ、いつもの場所――母の向かいに座った。エリファスもエサ入れの置いてあるテーブルの下まで駆けて行く。
 まったくないとは言わないが、あまり会話のない食卓に、誰も見ていないテレビの音が流れている。
 静かな食卓。
 そんなことを思う。
 母は当たり前のようにご飯を二膳しかよそわなかったが、私は何も言わない。もとから朝は食べないほうだったから、気にすることもない。
 私は食卓にはつかずに居間と続きになっている和室のほうに向かう。部屋の片隅に置かれている仏壇から線香の匂いが漂ってくる。
 私は静かにその仏壇の前に座った。
 真新しい小さな仏壇で、バナナとみかんと数種類のお菓子がお供えしてある。花は昨日変えたばかりなのか、まだ瑞々しい。立てたばかりらしい長い線香も立っている。
 私がしても意味はないだろうが、とりあえず手を合わせる。
 そしてちらりと二人の様子を見ながらみかんとお菓子を少しだけ、取る。
 とりあえずスカートのポケットにそれを隠し、ついでに壁にかかった時計を見た。
 長針は二と三の間、三寄りのところ。
 テレビではちょうどCMに入ったところだった。
 それらを一瞥してから二階の自分の部屋に戻る。
 カーテンを開けていないせいで少し薄暗い部屋。机の上と同じくきちんと整理されていて、どこか生活感に欠けている。
 机の横に掛けてあったカバンを手に取り、さっき取ってきたみかんとお菓子をしまう。
 そのついでにカバンの中身も確認する。
 半透明のルーズリーフに飾り気のない実用性重視の薄汚れた筆箱、凶器になりそうな程に分厚い読みかけの文庫本。
 一応、今日の時間割を頭の中で反復してみる。
 体育が二時間に美術と古典、数学に化学。
 ならばこれだけで十分だろう。
 周囲からは真面目だと思われていたが、実際はそうでもない。嫌いな科目は最低限しかやらない信条だ。
 それに、最近では教科書を使う授業はあまりやらない。筆記用具さえあればどうにかなってしまう。
 まぁ、そういう問題でもないのだが、とにかく持ち物はこれだけでいい。
 時間は七時二十分。
 家を出るのに早い時間ではない。
 カバンを肩に掛けて薄暗い部屋を出た。