呼び声

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 物心ついた頃から、私には他人には聞こえない<声>が聞こえていた。
 初めは何を言っているのかもわからぬ程の遠くから。
 <声>は近付いている。徐々に徐々に……。ゆっくりと。
 小学校に入る頃には言葉が判別できるまでになった。
 それはただ、名前を呼んでいる様だった。聞き覚えのない、不思議な名前。
 けれども私はそれが私の名だと知っていた。
 それと同時にその呼びかけに応えてはいけないということも、わかっていた。
 <声>が聞こえても、応えてはいけない。振り向いてはいけない。決して。
 それは言わば本能のような物。
 応えればもう戻れないと、今までの生活を捨てることになると、感じていた。
 けれど<声>は年を追うごとに、日を追うごとに近付いて来る。
 そのうち、私は不思議な感覚に陥るようになった。<声>が聞こえるたび、<声>に名前を呼ばれるたびに、胸を締め付けられるような懐かしさを覚えるのだ。
 応えてはいけないと頭は言う。なのに心は懐かしいと泣き叫ぶ。
 近付くたびに郷愁は増していく。
 訳もわからぬ懐かしさに胸が痛くなる。
 あぁ、応えてはいけない。
 けれど応えたい。
 応えてはいけない。
 もう<声>はすぐ後ろに。
 懐かしい<声>が私を呼ぶ。
 あぁ、あぁ。応えたい。
 応えたいが……、応えてはいけない……。
 気が、狂いそうだ。
 二つの思いが交差する。
 私の名を――呼んで――呼ばないで――
 私の名を――――

「あの、落としましたよ」 『――――』

 重なる声。
 振り向いては――

終わり