己の容姿を際立たせるための晴れの衣装に身を包んだ男は、深くため息を吐いた。
空の晴れやかさに反比例してその表情は暗い。
「今日はもう逃がしませんからね」
それを見咎めた青年に釘を刺されて男は苦笑した。
「ひどいなぁ。僕は諦めの良い人間なのに」
「昨日さんざん逃げ回った人が何を言ってるんですか。貴方は諦めるまでは徹底的に抵抗する人ですからね」
「だから昨日さんざん逃げ回って諦めたの」
信じられないというような視線を送られて、男は苦笑の色を深くする。
「本当に今日はもう逃げないよ。……約束したからね」
「昨日何かあったんですか?」
思い出すように遠くを眺めてひっそりと微笑む男に青年は訝しげに声をかけた。
「あぁ……泡沫の恋、だね」
相手の名前さえ知らない。それは向こうも同じ。
それでも共にいた短い時間は、今までの人生の中で一番充実していたと感じられた。
泡沫の、ほんの一時の――
「うわぁっ!」
朝の喧騒の中の曲がり角での偶然。
「ごめん!」
「ちょっと! 助け起こすぐらいしたらどうなのよ!」
君も急いでいたはずなのに、謝罪だけして走っていこうとした僕をそう言って引き止めたよね。
「えっ! あぁ、ごめん!」
それなのに僕が手を差し出したら、君ってばキョトンとして僕の手と顔を見比べて、ついには笑い出しちゃった。
何事かと思ったよ。僕が何かおかしなことでもしたのかと。
手を差し出したのに君は笑うばかりで立ち上がってくれないし、遠くのほうからは喧騒に交じって僕のことを探す声が聞こえるしで、本当にあの時は焦ったよ。
それで仕様がないから脇の下に手をいれて立ち上がらせたら、君、元から大きな目をもっと大きくして驚いてたね。
「それじゃぁ、僕急いでるから」
「待って!」
今度こそ行こうとした僕を君はもう一度引き止めてこう言ったんだ。
「私と一日デートしない?」
「……は?」
「あなたここ初めてでしょう? 逃げ回りながら観光しない? 私この街のことに詳しいの」
そう言って笑う君の顔が、とても印象的だったよ。花の咲いたような笑顔って言うけれど、まさにそんな感じの笑顔で。
それから君は色々な場所に連れてってくれたね。
とても楽しかったよ。
舞台裏から演劇を見るなんて初めてだったし、隠れ家みたいな不思議なお店で飲んだお茶はやっぱり不思議な味だった。街で一番高い塔からは街全体が見渡せたね。
それから、海の見える公園。夕日がとても綺麗だったね。
とても楽しくて、とても、離れがたかったよ。君と。
「ありがとう。今日は楽しかったわ」
「それは僕の台詞だよ。ありがとう」
「いいのよ。実は私も逃げてたから。二人で逃げてたほうが敵の目を誤魔化せるでしょう?」
鮮やかに笑う君。とても、綺麗だった。
「それに最後に思い出も欲しかったから」
「最後?」
「そう。明日お見合いするのよ。お見合いって言っても、もう九割がた決まってるんだけどね」
「奇遇だね。僕も明日見合いなんだ」
二人で顔を合わせて笑って。
「私たち似たもの同士ね。お見合いが嫌で逃げ出して」
「いっそこのまま二人で逃げる? 愛の逃避行ってやつ」
夕日が沈むまでずっとそうしていたね。
泡沫の恋。
ほんの一瞬の、泡が消えるように、消えていく。
それは夢のよう。
逃げてしまえるほど、向う見ずでも、無責任でもなかったから。
「失礼します」
男は一礼して部屋に入り、用意されていたイスに座った。
顔を上げて一瞬、目を見張る。
向かいに座っているのは、美しい伝統衣装に身を包んだ女性。
見合いの相手。
「また、会いましたね」
それは、花が咲いたような笑顔。
終わり