使用人

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 部屋の中に入れば、息のつまる甘ったるい匂いが鼻につく。人によれば良い香りだと思うのかもしれないが、私にとっては嫌な、長時間こんなところに居たくないと思わせるような匂いだ。
 つい眉をしかめそうになって、慌てて自制する。そんな表情をアレに見られたら何を言われることか。
 けれどそんな私の心配も杞憂に済んだ。アレは窓際の一番日当たりのいい場所に寝転がって昼寝の真っ最中だった。
 そっと息を吐き、ついで肺を満たした甘い空気にぐっと息がつまる。
 さっさと用事を済ませて部屋を出ようと、匂いを我慢しながらアレに近付く。
 ひどく心地好さそうな寝顔になんだか腹が立ち、デコピンをしてやった。
 ぱしっという良い音と同時に、アレは額を押さえて飛び起きた。
 寝起きで何が起きたのかわからずにしばらく挙動不審になっていたが、傍らに居る私に気が付くと、状況を把握したのかぷうっと頬を膨らませた。

「もっと優しく起こしてって言ってるでしょー! 傷になったらどうしてくれるのさ!」
「いいからさっさと水を飲みなさい」

 ぎゃんぎゃんとうるさく文句を言い立てていたが、私が持ってきた水を突き出せば、まだ怒ったような顔はしていたものの、とりあえずは口を閉じた。
 アレが黙って水を飲んでいる間に、私は窓を開けて部屋に空気を通してやる。外の空気が入ってくることで匂いが薄くなり、少しだけ人心地がつく。完全に空気を入れ替えてしまいたいぐらいだが、開けすぎていると部屋の温度が下がってしまうので、適度なところで窓は閉める。温度計で室温を確認してから、アレの元に戻る。

「食事は?」
「んー、まだいいや」

 水を飲んで満足したのか、伸びをして再び床に寝転がった。私がデコピンしたことはもう忘れたらしい。

「こら、まだ寝ない」

 だらけているのを引っ張り起こして、無理やりこっちを向かせて顔を見やすいように固定する。大きな目は綺麗に澄んでいて、肌もきめ細かく瑞々しい。髪にも艶があり、所謂天使の輪ができている。
 顔から手を離すと、次に手を取る。手首から指先まで荒れている部分がないか確認する。
 なんだかんだと我侭なくせに、体調が悪くなっても自分から申告してこないから、いつもと変わったところがないか直接確認してやらないといけない。

「よし、問題なし」

 私が手を離してやるとアレはすぐさま寝転がった。
 身体のほうには問題はなさそうに見えたが、ここまで寝たがるのはどこか調子が悪いのだろうか。

「今からそんなに寝てたら、後で眠れなくなるんじゃない?」
「だーって暇なんだもんー」

 とくに問題はないようだ。
 するべきことをし終えて私が部屋を辞そうとすると、ごろごろ転がっていたアレは突然ぱっと跳ね起きた。

「音楽聴きたい!」
「は?」

 突然の言葉につい眉をしかめてしまったが、アレは私のことなどそっちのけでしゃべり続ける。

「ほらあれ、この間かけてくれたやつ、なんて言ったっけ、きらきらでふわふわした曲! あれが聞きたい!」

 はっきり言って何の曲を指しているのか抽象的過ぎてまったくわからない。せがまれて何度か手持ちのCDを適当に聞かせてやったことがあるから、その中のどれかだとは思うが。

「もっと具体的に」
「なんかきらきらしててふわふわしたやつで、あ、歌は入ってなかった」

 そんなことを言われても、私の持っているCDはほとんどがインストルメンタルのものなので、なんのヒントにもならない。
 しかたない。それっぽいものを後で見繕って持ってくることにしよう。
 私が言葉を発しようとすると、それをさえぎるようにドアが叩かれた。同時に部屋の外から声もかけられる。

「姉さん、電話だよ」

 一つ下の弟だ。

「はい、ちょっと待って」

 弟に返事をしてから、アレに向き直る。

「CDは後で持ってくるから」
「きらきらでふわふわのだからね!」
「はいはい、わかりました」

 念を押してくるアレをあしらいながら、もう一度だけ室温を確認してドアを開ける。
 ドアの前では弟が待っていた。我が家はコードレス電話ではないから、別に待っていることはないのだが。
 私が部屋から出てくると、入れ替わるようにひょいっと弟が部屋の中を覗き込んだ。

「お、元気そうだね。なんだかんだ言っても姉さんちゃんと世話してるんじゃん」
「まぁ、お祖父さんに頼まれてるから」

 弟はからかうように言ってきたが、さらりと流す。
 それに、どうやら使用人として気に入られているから、とはさすがに口にはしなかった。
 部屋の温度が下がるからと覗き込んでる弟を退かせて、ドアを閉める。完全に閉めてしまう前にもう一度ちらりと部屋の中を確認する。
 部屋の中、窓際の一番日当たりのいい場所で、蘭の花は、綺麗に咲いていた。

終わり