ぽつりと頬に冷たい雫が弾ける。
立ち止まって振り仰げば、もう一度ぽつりと、今度は口元に落ちる。
空は灰色のグラデーションが立ちこめていた。
ぽつり……ぽつり……
ぽつり、ぽつり、
次第に間隔が狭まっていき、灰色の地面が黒くにじんだ点々に覆われていく。
ぽつぽつぽつ
濡れたアスファルトがにおい立ち、硬くむっとした空気に全身を包まれる。
服にじわりじわりと水がしみこんでいく。
「あー……ここどこだろ……」
俺は途方にくれて呟いた。
周囲には背の高いマンションや古そうなアパート、こじんまりとした一軒家などが立ち並び、雨宿りできそうなところはどこにも見当たらない。最近は物騒な事件が多いから、ちょっと軒先をお借りして、なんてこともはばかられる。
やれやれと一つため息を吐いた。
友人が引越しをしたというから、引越し祝いをやるついでに遊びに行こうとしただけなのに、とんだことになった。それもこれもあいつがちゃんと場所を説明しないから……。いや、今更そんなことを言ってもどうしようもないか。真夏だから風邪を引くことはないだろうが、いつまでも雨に濡れているのはごめんこうむりたい。
せめてコンビにでもあればと、俺は再び歩き出した。
歩いている間にも雨脚は強くなる一方で、濡れた髪の毛は皮膚に張り付き、雫が顔に滴ってくるので視界も悪くなる。
人が歩いていれば道も聞けるのに、平日の昼間、さらに雨降りのせいもあってか、自分以外の通行人とはまったく行き当たらない。
本当にどうしたものかと何度目かのため息を吐く。
ため息を吐いたところで、どうにもならないことはわかっているが、こればっかりはしょうがない。
歩きながらコンビニ特有の目立つ看板を探していると、ふと別のものが目に付いた。
それは一見しただけでは気が付かないような、地味で小さな看板だった。
自分でも何故気が付いたのか不思議なぐらいだったが、今は渡りに船と言うべきか。何の店かはわからないが、雨宿りぐらいはさせてもらえるだろう。
周囲を普通の住宅に囲まれ、店自体も普通の家屋にしか見えない。だが一応看板は出ているし、ドアのところにもopenという札がかかっているから何かの店であることは確かのようだ。
俺は恐る恐る焦げ茶色の扉を開けてみた。
カランという鈴の音ともに俺の耳に入り込んできたのは柔らかなピアノの音色だった。残念ながら音楽にはまったく詳しくないので、タイトルまではわからないが、そんな俺でも聞き覚えがあるようなクラシックの曲だ。
次に、甘い香りが鼻をくすぐる。
「あ……」
「あらやだ!」
店員らしき女性は、俺の姿を見るなり、慌てて店の奥に引っ込んでしまった。
雨宿りをさせて欲しいと言おうと開いた口は空振って、言葉の代わりに吐息が吐き出される。
髪や衣服からぽたりぽたりと雨の名残が滴り、入り口のマットに染みを作っていく。
店内は決して広いとは言えないものの、色とりどりのケーキの並んだきれいなショーケースがあり、その横に小さなテーブルが二脚置かれている。どうやら喫茶もしているケーキ屋のようだ。
ドアの前から動かずに店内を見渡していると、先ほどの女性が店の奥からやはり慌てた様子で戻ってくる。
「あの……」
再び開いた口は、頭から被せられた大きなバスタオルによって今度もあえなく遮られることとなった。
俺の戸惑いなど気にした風もなく、彼女はタオルをわしゃわしゃと動かして、俺のびしょ濡れの頭から水分を拭っていく。
仕方なく、俺はされるがままに身を任せた。好意でやってくれていることだろうから、文句を言う理由もない。
手とタオルに翻弄されながら、その持ち主を観察してみた。背は俺よりも小さいが、女性にしては高いほうな気がする。年は俺よりも上だろうが、多分三十代はいっていないと思う。あまり、他人の年齢を推測するのは得意ではないのでよくわからないが。長い髪の毛は二つに分けて三つ編みにし、その上から赤いチェックのバンダナを巻いている。そしてどうやらそれが店員の制服代わりなのか、バンダナと同じ柄のエプロンをしている。
ようやく気が済んだのか、女性は俺の頭の上からタオルを退かせた。
「災難だったわね、降られちゃって」
「え、あ、はい……」
突然話しかけられて頭が空転する。慌てて言うべきことを思い出す。
「あ、少し雨宿りさせてもらってもいいですか」
「ええ、どうぞ。今暇だったから、話し相手になってくれると嬉しいわ」
座っててと言って、テーブルの一方を示し、彼女はまた店の奥に引っ込んでいった。
言われた通りに俺はイスに座る。
髪の毛はタオルで拭われてさっぱりしたものの、衣服は依然として濡れたままなので、肌にぴたりと張り付いて少しばかり鬱陶しい。だからと言ってこんなところで脱ぐわけにもいかないが。
俺は一つため息を吐いた。今日何度目のため息になるのだろうとどうでもいいことを思う。
戻ってきた女性は今度はタオルの変わりにカップを二つ持っていた。
一つを俺の前に置き、その向かいに座った自分の前にもう一つを置く。
白いカップの中身は暖かなチョコレート色の飲み物だった。
「夏場でもそんなに濡れちゃってたら体冷えちゃうでしょ。中から暖めないと」
「……ありがとうございます」
一口飲むと、じわりと腹の底に熱がたまり、そこからゆっくりと広がっていく。
自覚はなかったが、結構冷えていたようだ。
ココアの温かさが心地好い。
もう一口飲んでカップを下ろすと、向かいから手が伸びてきて、とっさに身を引いてしまった。
女性は俺の反応に小さく笑いながら手を引っ込める。
「ごめんなさい。髪の毛ぐしゃぐしゃにしちゃったなって思って」
鏡がないのでわからないが、存分に髪の毛をかき混ぜられたので、確かに頭が鳥の巣みたいになっているのだろう。あまりセットがどうこうと気にするほうでもないが、なんだか気恥ずかしくなり、さっと手櫛で整える。
「この辺りの方、じゃないですよね?」
「あ、はい。友達の家に遊びに来たんですけど……その、実は迷ってしまって」
この際だからと友人宅の住所を告げて道を尋ねる。
女性は少しだけ考えてから、テーブルに置いてあった紙ナプキンを一枚取ってエプロンのポケットにさしていたボールペンでさらさらと地図を書き出した。
「多分五差路のところで曲がる道を間違えたのね」
そう言ってわかりやすく道を教えてくれる。
静かに流れていたピアノの音色が余韻を残して終わると、数秒の間を置いて別の曲が流れ出した。ピアノで奏でられているのには変わりないが、今度はクラシックではなく、古いJ-POPだった。たしか俺が小学校の高学年の頃に流行っていたはずなので、もう十年近く前の曲だ。別段、好きだったわけでもないが、それでもあの当時色々なところで耳にしていたせいか、ひどく懐かしい感じがした。
「この曲好き?」
「あ、いえ、懐かしいと思って」
「これ、私が弾いてるのよ」
「え?」
女性は片手をテーブルの上でピアノの鍵盤を叩くように軽やかに動かした。
「ピアノ習ってるの。まだ全然上手くないけどね」
「でも、ちゃんと弾けてて、それだけですごいなぁ、って思いますよ。俺は楽器とか何にも弾けないので」
「ありがとう」
女性は恥ずかしそうにしながらも、綺麗に笑って言った。
それから三十分程して、俺は店を出た。雨はまだ完全には止んではいなかったが、それでももうほとんど降っていないようなものだったので、気になることはなかった。雨宿りの礼も兼ねて買ったケーキを片手に、書いてもらった地図を見ながら友人宅へと向かった。
歩きながらふと店に流れていた曲のメロディが頭を過ぎる。
たまには雨に降られるのもそう悪いものでもないと思い直した。
終わり