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父が死んだ。
恥も外聞もなく、醜く抵抗するだろうと思っていたのに、ほとんど何をすることもなく、事切れた。
私は覚めた目で、こんなものかとわずかな隙間から見ていた。
手を下したのは見知らぬ男だ。
読書と研究三昧でほとんど骨と皮だけの父とは違い、とても大きな体をしていた。
所謂物取りの類だろうかと思ったが、男は父を手にかけた後、何を取るでもなしに研究室に火を放って出て行った。
人が入るにはひどく手狭な戸棚に押し込められていた私は運良くも気づかれることはなかった。
もし気付かれていたならば、私も父と同じように殺されていただろう。
その点では戸棚に私を押し込めた父に感謝してもいいかもしれない。目障りだからという理由で押し込まれたにせよ、結果としてそのために私は殺されなかったのだから。
男が出て行って、炎が天井をなめ始めた頃、ようやく私は戸棚から抜け出した。
死んだ父の側に立って、その死に顔を見下ろしてみた。
驚愕に目を見開いているような、恐怖におののいているような、そんな表情のままに時を止めている。
ああ、父は死んだのだ。
あの男に殺されたのだ。
なのに、何故だろう。何の感情も心には浮かばない。
唯一の肉親が死んだことへの悲しみを、あるいはこの身を虐げる者が消えたことへの喜びを、私は感じても良いはずだ。
けれど、私の心には何も現れない。
父はいつも私を出来損ないと呼んでいた。出来損ないだから、こんなにも心が空虚なのだろうか。
私にはわからない。
そうしている間にも、火炎は大きく育ち、部屋中に広がろうとしていた。
このままこうしていれな、私もじきに死ぬだろう。
逃げなくてはいけない。
けれどどこへ。
父という枷の外された私はどこへ行けばいいのだろう。
どうやって、生きればいいのだろう。
何もわからない。
いっそこのまま炎に巻かれて死んだほうがいいのかもしれないと、そんな考えが頭をよぎる。
けれど、即座にその考えは打ち消される。
それはだめだ。それは嫌だ、と。
空っぽな私の心に初めて感情と呼べる気持ちがわきあがる。
生きたいという気持ち。死にたくないという気持ち。
炎に包まれる部屋を見回し、もう一度父を見下ろして、私は出入り口へと向かう。
どうすればいいかはわからないが、生き抜くために、この家屋から脱出しよう。
服の袖で鼻と口を押さえて煙をあまり吸い込まないようにして歩きながら、ふと、父を殺した男を思い出した。
赤茶色の髪をした、大きな体の男。
あの男ならば、私に何かしらの答えをくれるだろうか。