夕暮れ

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 雲がずいぶんな速度で流れていく。太陽はだいぶ傾き、空を橙色に染め上げていた。風がカーテンを揺らして、室内に涼しい空気を送りこんでくる。
 すべてが白に統一された狭い部屋の中。
 女性が寝台に上体を起こして横になっていた。長い黒髪をゆるく二つに結び全体的にほっそりとした若い女だ。
 彼女は手に持った細い棒を器用に動かし、鮮やかな緑色の毛糸を編んでいる。大きさと形状から察すると、子供用の手袋を編んでいるようだった。

 ――トントン

 部屋の戸が叩かれる。

「どうぞ」

 女は手を止め、戸の方に顔を向けた。
 入ってきたのは黒髪黒瞳の男だった。彼女よりも一回りほど年上で、眼鏡をかけている。
 彼を見て彼女は嬉しそうに微笑んだ。
 男は彼女の夫であった。

「起きてても大丈夫なのかい?」

 そう言いながら彼は寝台の脇に置かれた椅子に座った。

「今回はただの検査入院だもの。退屈でしかたないわ」

 女は肩をすくめて笑って言った。それにつられるように男もくすりと笑みをもらす。

「それはウチのわんぱく坊主に?」

 男は彼女の手元の毛糸を示して言った。
 手袋はもう半分ほどまで編みあがっている。

「ええ。これができたらあなたのも編むつもりよ」

 その言葉にひどく残念そうに男は苦笑を浮かべた。

「ありがとう。……だけどそれじゃあ向こうには持っていけないなぁ」
「あら、またどこかに行くの?」
「うん。それが急遽決まったものだから出発が明後日なんだ」

 首を傾げる女に彼は困ったように眉を下げ、それから少しだけ申し訳なさそうに言葉を続ける。

「ええと、君は明日の夕方には帰ってこれるんだよね?」
「そうよ。ちゃんとお見送りが出来るわ。ねぇ、今度はどこへ行くの?」

 嬉しそうに彼女は笑う。男は眩しそうに目を細めた。けれどその手は強く握り締められている。

「それが、今回はちょっと遠くて……北の方に行くんだ」

 ゆっくりと、目を見ながら話された彼の言葉に、彼女は目を丸くする。それでも口だけは何でもないように、言葉を紡ぐ。

「……そうなの。向こうの方はもう雪が降ってる所もあるそうね」

 窓の外から夕刻の街の賑わいが聞こえてくる。
 二人は視線で会話するようにじっと双方の瞳を見つめた。
 色々な言葉が、気持ちが無言のうちに交わされる。
 先に目を逸らしたのは男のほうだった。彼はふいと椅子から立ち上がり、窓に近寄っていく。

「ごめんね」

 がらがらと窓を閉めながら彼は小さくつぶやいた。背を向けたままのその表情を窺うことは出来ないが、その声は悲しみの色を呈していた。
 彼女も手元のまだ編みかけの小さな手袋をぎゅっと握り締めながら、窓の外を眺めた。顔に笑みをたたえながらも、やはりそれはどこか悲しげであった。
 夕日が白い部屋の中を橙色に彩っている。

「手袋は帰ってきた時のお楽しみにしておくよ」
「それじゃあ、特別暖かいのを編んであげるわ」

 何事もなかったように振り返る男に、女も悲しみを消してにっこりと微笑んだ。
 その後彼は二言三言、言葉を交わして帰っていった。
 彼女は最後まで笑顔で見送った。
 けれど戸が閉まった瞬間、耐え切れなくなったように両の手で顔を覆い、白い敷布に顔を押し付けた。嗚咽をもらさないように歯を食いしばっているが、その肩は揺れている。雫が手の間を伝って布を湿らせる。

 ――わかっていたことでしょう。

 女はそう自分に言い聞かせる。

 ――こんなこと、結婚する時からわかっていたことじゃない。いつか消えてしまう人だって。何を今更泣いているの。その時を教えてもらえただけ、マシでしょう。

 そう言い聞かせても、肩の震えは止まらず、雫は伝い続ける。
 どれほどの時間が経ったか、太陽は見えなくなり、空はすっかり夜の装いへと変わっていた。
 暗い部屋の中で彼女はきっと顔を上げた。
 いつまでも泣いてばかりはいられない。
 濡れる目元を乱暴に拭うと、編みかけの小さな手袋の糸を解きにかかった。
 その瞳はひどく真剣なものだった。
 全て解き終わると、彼女はまた編み棒を持ち直し、解いたばかりの毛糸を再び編み始めた。今度は先程の物よりも大きめに。
 それは夫のために――。
 遠くへ行ってしまう彼のために――。
 もう二度とは会えない愛しい人のために――。
 彼女の頬を再び涙が伝ったが、毛糸から視線がそらされることはなかった。

終わり