アルヴァ氏の優雅な一日

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 夏の暑さもようやくなりを潜め、ひんやりとした空気が秋らしさをかもし出していた。木々が落とした黄や赤の葉が地面を飾り、行き交う人々の姿も秋色へと移っている。やがて来る冬への準備に人々は大忙しだ。
 しかし忙しそうに動き回る人々のただ中にいて、悠然と過ごしている人物がいる。人でごった返している広場の、道を挟んで向かいにある喫茶店の、外の露台の席。そこに彼はいた。まだそう本格的に寒いわけではないが、それでも屋外に長時間いるには十分すぎるほど寒い中、彼は暖かそうな外套と襟巻きをしっかりと身に付けて、風に吹かれながら座っている。当たり前だが、他に露台の席に座っている者はいない。
 その横を通り過ぎていく人々は、横目でちらりと、あるいはまじまじと彼のことを見ていくが、それは何もこの冷たい空気の中わざわざ外で茶を飲んでいるという奇異な行動のためだけではない。
 ゆるく編みこまれた柔らかな金の髪はまるで一本一本が細い飴細工のように繊細で、紫がかった深い紺色の両の瞳は大粒の青玉のように澄んでいる。肌は白くきめ細やかで、まるで陶器のごとき滑らかさを湛えている。目・鼻・口はこれ以上ないというぐらいに絶妙な位置に配置され、それぞれがそれぞれを引き立てあうことにより、そのどれか一つが欠けることも許されない、極めて均整の取れた顔立ちが実現している。今は座っているためにはっきりとはわからないものの、背も標準以上にあるだろう。すらりと長い足を優雅に組んだ彼の容姿は、まさに物語に出てくるような王子さまであった。――つまりは十人中十人が振り返るほどに美しい姿形をしているのである。
 そんな美貌の王子さまの名前はオーヴィッド・アルヴァという。決してどこぞの国の王子さまでも、高貴な血を引く貴族さまでも、ない。ただの売れない物書き屋である。
 しかし物書きとは言っても、作品が雑誌に掲載されたり、本として出版されたりしているわけではなく、いたってまっとうに働くことで生計を立てていた。だが一年程前に運良くとある月刊雑誌の編集者と知り合ったことで、わずか半頁ほどの囲み記事ではあるが、文章を載せる場を貰うことが出来た。おまけに一度限りではなく、連載物である。それで本人は、華麗なる物書き人生が満を持して幕を開け、階段を駆け上がるように軽やかに人気作家への道を登っていくのだ、とかなんとか思っただったが、しかし今のところはまだ無名の三流物書き屋である。
 たとえ無名の三流物書き屋であろうと見た目だけは麗しの王子さま。青玉の瞳を憂いで揺らし、切ない吐息をもらす姿も、まるで人知れぬ恋に悩んでいるかのようでたいへん絵になっている。しかしその内情はただ単に、締め切りを明日に控えながらもいまだ原稿が真っ白で、それどころかネタさえ思いついていないというこの危機的状況を、どうやって切り抜けるかと悩んでいるだけである。

(いっそ作者急病のため……いや、駄目だ。そんなことをすればいつも連載を楽しみにしてくれている読者を失望させることになる!)

 そう思う彼の心掛けはすばらしいものだが、実際は彼の記事にそこまでの人気はない。
 ちなみに言うと、彼が書いているのは『占い師オーヴのドキ☆ドキまじない講座』という、十代の女の子向けの恋愛や友情に関する簡単なおまじないを紹介する記事である。オーヴというのが彼の筆名だ。占い師というのは編集者が勝手に付けたもので、彼自身は占いなんて一切できやしないし、実のところはおまじないだってまったく知らない。最初の一、二回はあちこち駆けずり回って良さそうなものを調べたが、労力に比して入ってくるのは雀の涙ほどの原稿料。これではやってられないと、それ以降はすべてでっち上げで済ませている。
 今回だってもちろんでっち上げようと思っているのだが、如何せん、おまじないに出来そうな良いネタが見つからない。それで何かないかと、多くの人が行き交う広場の向かいの喫茶店の露台で、寒い思いをしながらお茶を飲んでいるという次第なのである。
 ネタさえ見つかれば後はちょちょいのちょいと、それらしい文章をでっち上げるだけ。一時間もかからずに完成する。だが、とにもかくにもネタがなければどうにもならない。
 彼は外気の気温により早々に冷めてしまったお茶をちょびちょびとすすりながら、変わった動きをしている人はいないかと広場の雑踏に目をさまよわせる。ふと、人込みから少し離れたところにいる女の子が目に入った。
 髪は黒く、襟足の辺りですっきりと整えられている。流石に彼の位置からでは瞳の色を判別することは出来ないが、こげ茶色の少し古臭い型の外套を身に付け、大きな鞄の上に腰かけて人待ち風情である。長い時間待っているのか、寒そうに手をすり合わせたりしながら退屈そうに人の流れを眺めている。
 その様子に、こちらは半ば自業自得ではあるものの、同じように長いこと冷たい空気に晒されている彼は共感を覚えた。

(あぁ、きっと恋人に会いに、田舎から出てきたんだ。だけど久しぶりに会えるのが楽しみで、待ちきれなくて、待ち合わせの時間よりもだいぶ早くに着いちゃったんだな)

 勝手にそんなことを思った。そしてまるで我がことの様に、彼女を寒さに震えさせながら待たせている恋人に腹を立てた。

(いったいなにをやっているんだ! この寒空の下、あんなにもあの子は凍えているというのに! あの子に寒い思いをさせないよう待ち合わせの前の日から待っているのが恋人としての誠意だろう!)

 突っ込みを入れてくれるほど親切な人は、彼の脳内にはいない。
 勝手に想像して勝手に腹を立てながら、それでも見た目だけは優雅に冷たいお茶を飲んでいた彼だったが、突然身を乗り出した。
 それには通行人も驚き、彼の視線の先を探そうとしたが、広場には特別驚くようなものは見当たらず、不思議そうに首を傾げて通り過ぎていく。
 彼が見ているのは恋人を待っている(と勝手に設定した)女の子だ。その女の子の手が動いている。
 ただ動いているのではなく、少し変わった動きだ。指を絡めて、曲げて、捻って、不思議な形に両手を組んでいる。

(なんだあれは?)

 彼は夢中になってじっと見つめる。
 手の動きを止めた女の子は次に口を数回開閉した。

(なんて言ってるんだ……? 三文字か……四文字の言葉か……。お?)

 若い男が女の子に駆け寄ってきた。女の子がにっこりと微笑んで立ち上がった。
 それを見て彼は打ち震えた。

(そうか!)

 彼の中ではすべてが繋がったようだ。

(あれはまじないなのか! 待ち人が来る……いや、会いたい人に会えるまじないだ!!)

 もう一度言うが彼の脳内に突っ込みを入れてくれるほど親切な人はいない。
 うろこ雲の浮かぶ薄い水色の空を彼は見上げた。

(あの子には恋人が、そして僕にはネタがやってきた。あぁ、今日はなんて良い日だろう!)

 通行人が見とれてつい立ち止まってしまうほど綺麗な微笑みを浮かべて、ご機嫌にアルヴァ氏は帰っていったのだった。

終わり