季節は夏から秋へと移行し、空や植物、そしてもちろん人も、これからやって来る寒い冬への支度に追われている。空は色を変え、樹木は葉を落とし、人は衣服を重ねて、薄物から厚物へと装いを変えていく。
乗り合い馬車の停留所となっている広場は人で溢れ返っていた。馬車に乗り込む人、降りる人、またそれを見送る人に、迎える人。
そんな彼らの邪魔にならないようにと、ハールは人ごみから少し離れた広間の隅にいた。大きな旅行鞄に腰かけて、二時間前には自分もその構成要素だった雑踏をぼんやりと眺めていた。
迎えの人物はまだやって来ない。
すっかり冷たくなってしまった手に息を吐きつけて、擦り合わせる。まだ吐いた息が白くなるほど寒くはないが、それでも長時間外で風に晒されているために身体はすっかりと冷えてしまっていた。
やはりもう一つ遅い便でよかったとハールは震えながら思った。
本当ならばこんな風に寒さを耐えながら迎えを待つ予定ではなかったのだ。そう、ハールが立てた予定では。
朝はいつもよりほんの十分だけ早く起きる。その早く起きた十分で荷物の確認をして、手早く着替えてご飯を食べて顔を洗う。それから今までお世話になった人や親しい人たちに改めて別れを告げて回り、家族と友達に見送られながら馬車に乗って出発する。馬車の中では別れをほんの少しだけ悲しみ、新天地への期待と不安で胸を溢れさせ、馬車が到着した時には迎えの人がちゃんと待ち構えている――はずだった。
しかし母親はハールをいつもよりも三時間も前に叩き起こし(一番鶏もまだ鳴いていなかった)、別れを惜しむ暇さえ与えず(そんなものは前日までに済ませておくものだと言っていた)、乗る予定だった馬車の一つ早い便に乗り込ませた(予定の便の二時間も早かった)。きっと一秒でも遅れれば、この話がなかったことにされるとでも思っていたのだろう。
ハールは大きなため息を吐いた。
しかしそれもしょうがないことなのだろうと思う。
なにせ生活の役にも立たない本ばかり読んでいる世間知らずなただの金食い虫の田舎娘が、事務官に大抜擢されたのだ。この機会を決して逃してはいけないと思うのは当たり前だろう。この話がなければ、嫁の貰い手もないハールには、いつも入り浸っていた古い小さな図書館で働くくらいしか道はなかった。
この事務官の仕事の話がハールの元にもたらされた時、真っ先に賛成したのが母親だった。無口な父親も母親の勢いに押されながらも賛成し、話を聞いたほとんどの人がいい話じゃないかと言って羨ましがった。
何しろ事務官と言ってもただの事務官ではないのだ。隣国の、そうあの有名な聖騎士がいる隣国の、事務官なのだ。
ハールのような田舎娘には不相応なぐらいにいい仕事だった。
けれど、その話を聞いてただ一人、弟だけが反対した。
自分とはまったく似ていない赤茶色の髪の男の子を思い出し、ハールは小さく笑う。
二つ年下のくせに弟はハールよりも頭一つ分も背が高い。それに加えて本を読むしか脳のない根暗なハールとは反対に、明るく活発で何でも出来て、みんなからも好かれていた。ハールとは似ても似つかない、出来た弟。
出来た弟は何故だか出来ない姉によく懐いていた。
道端で綺麗な花を見つければハールのために摘んできて、市場で珍しい物を見つければハールのために買ってくる。図書館以外に出歩かないハールのために外の様子を話して聞かせ、ハールが困っていれば出来うる限りは助けてくれた。
時々ハールはどちらが年上なのかわからなくなることがあった。あれは弟の皮を被った兄なのではないかと疑ったこともある。
どうして弟がそこまで自分に懐いてくれているのか、当の本人であるハールにもわからない。
いつも落ち零れな姉のことを心配してくれる優しい弟だった。
だからこそ、事務官の仕事の話が来た時、弟だけが反対した。
「騙されてると思う」
マールは厳しい顔でそう言った。
第一声がそれで、ハールはきょとんとして本から顔を上げた。
古い長テーブルの一番端に座り、背中を丸めながら読書にふけっていたハールの目の前に、マールは姿勢正しく座っている。
何のことかわからなくて首を傾げる姉に、弟は眼鏡の役人さんとだけ言った。
ああ、と頷いてハールがちらりと受付の方を見やれば、気を利かせてくれたのか、ただのサボりか、この図書館で唯一の職員である館長さんはいなくなっていた。
目に付くところに他の利用者はいない。元々ハール以外にこの図書館を利用する者など、ほとんどいないのだが。
「そうかな」
「だって、怪しいだろ。こんな田舎に隣の役人が来ていきなり事務官になりませんかって。どう考えても怪し過ぎる」
眉をぎゅっとしかめてそう力説する弟の言葉を耳に流しながら、ハールはぼんやりときれいな萌葱色の瞳を見ている。
まったく似たところのない二人の、唯一の共通点が瞳の色だった。
ハールはその黄色がかった緑色の目を通して、小さな自分の姿を確認していた。
「だから――って姉さん、ちゃんと聞いてる?」
姉がぼんやりしているのに気付いて、マールは身を乗り出す。
「あ……うん聞いてる」
慌てて頷いても、そんな一拍遅れた反応を見れば、聞いてなかったのは明白だった。
弟が口をへの字に曲げたのを見て、ハールは取り繕うように言葉を発する。
「大丈夫だよ。役人さん、館長さんの知り合いなんだって、だから」
「だから信用できるって?」
言葉を先回りされて、ハールは声を発しそこなった口を静かに閉じて頷いた。
マールは口を引き結ぶ。
「悪いけど、僕はあの館長のこともあんまり信用してないから」
そう言われてしまえばハールには何も言えず、困ったように眉を下げて弟の顔を見上げた。
マールも姉の顔を見つめている。
二人が口を閉ざし、動きを止めると、図書館は静かになった。外の音が遠くに小さく聞こえるだけで、建物の中で立てられる音は一つもない。
静かなにらめっこはマールがため息を吐いたことで終わった。
そして弟は少し寂しそうに微笑んだ。
「姉さんはもう決めてるんだね」
ハールは困ったような表情のままで、それでもはっきりと頷いた。
それを見て、マールはもう一つため息を吐いた。
「それじゃあ、今更何を言っても無理か……」
がっくりとうな垂れてしまった弟に、姉は慌てて言葉を探す。
「あの、あのね、本当に大丈夫だから、本当にね、ええと……」
上手い言葉が見つからずにハールが言いよどんでいると、マールは小さく笑った。
「わかってるよ。あの館長と役人は信用できないけど、姉さんのことは信じてるから」
笑顔を見れたことで安心したのか、ハールもつられるように笑みをこぼした。
馬車がすべて広間からいなくなったために、人ごみは少しだけ薄くなっていた。けれどそれもほんのわずかな時間だろう。またすぐに別の馬車がやって来る。
あまりの退屈さにハールは昔弟に教えた手遊びをやってみた。両手の小指と薬指を交差させ、その伸ばした薬指に中指を巻きつける。残った人差し指と親指は薬指の下でそれぞれ合わせる。それを上から見ると蛙の顔が現れる。
そう難しいものではないが、まだ小さかった弟の手では出来なくて、何度もやってくれとせがまれたものだった。
「ゲロゲロ」
親指を動かして口をぱくぱくさせながら、ハールは呟いた。
ハールは心配してくれる弟の気持ちが嬉しくて、それから、申し訳なくもあった。
この事務官の話はたしかにいい話だ。騙されているのではと疑ってしまうぐらいにいい話だ。
けれどこの話がハールの元にもたらされた本当の理由は、館長の知り合いだから、というものではない。
それは、ハールが知りすぎてしまったから。
本に没頭するうちに見つけてしまった、隠されていた歴史の一片。
世の中には隠しておかなければいけないこともあるのだと、あの眼鏡をかけた優しそうな男の人は言っていた。それがハールの見つけてしまったものなのだとも。
ハールは選択を迫られた。
知ってしまったことすべてを忘れるか、監視下に置かれるか、はたまた死か。
ハールには選べなかった。手に入れた知識を手放すことも、意地を張って命を投げ出すことも。
他に道がなかったのだとは言わない。ハールは積極的にこの道を選んだのだ。
知るために。すべての真実を知るために。
監視下にいる限りは知ることを許されたから。
結局は自分の欲の為。
だからこそハールは、純粋に心配してくれる弟の気持ちが、苦しかった。
ほうっと息を吐き、ハールは太陽が傾きかけた空を見上げた。
薄い水色の空にうろこ雲が流れていく。
視線を人ごみに向けると、こちらに駆けてくる人影があった。きっとあれが迎えの人物なのだろう。
これからの毎日を思い、ハールはうっとりと微笑んだ。
終わり