風が吹き、梢を騒がしく揺らしている。空に月はなく、厚い雲が夜の帳を覆っている。もし空が晴れ渡っていたならば、煌々と輝く半月を西に見ることができただろう。
人里離れた山荘の一室。物置として使われているらしく、様々な物が部屋いっぱいに置いてある。すばらしい装飾の剣や槍、金や銀の食器類、宝石の散りばめられた装身具などが無造作に置かれている。そしてさらに、それらの物品と共に子供が一人、縄で縛られて転がされていた。
年の頃は五・六歳で、若草色の瞳を恐怖に涙で濡らしている。
それでも子供は幼さゆえの無知から、強く信じていた。父から寝物語に聞いた物語を。正義の騎士が自分を助けに来てくれることを。
(ぜったい、助けにきてくれるんだ。お父さんがいってたんだもん。せいきしは正義のみかただって。だから悪いやつらみんなやっつけて、ぼくを助けてくれるんだ)
震えながらも、子供はかたくなに信じていた。正義の味方である聖騎士が助けに来てくれることを。
部屋には窓が一つある。木組みの枠に擦り硝子のはまったあまり大きくない窓だ。
それが音もなく、開いた。
風がびゅうと暗い部屋の中へ吹き込む。けれど窓はすぐに閉まり、風も一瞬部屋の中を暴れまわっただけですぐに止んだ。
窓に背を向けている子供は何が起きたのかわからず、突然わき起こった風にただただおびえた。
「な、なに?」
子供の震えた声に誰もいないはずの部屋の中で誰かが舌打ちをする。
「だれ? せいきし? ぼくを助けにきてくれたの?」
その誰かは子供の問いには答えなかった。音も気配もなく子供の側に近づくと、
「朝の光が訪れるまで安らかに眠れ(レス・オメイル・ディマテイン・ビエント・アキュアブリィ)」
静かにささやいた。
子供は落ちていく意識の中で闇を見た。
飛び散る血に男は逃げ出した。
どうしてこんなことになったのか。すべてが上手くいっていたはずなのに。
逃げながら男は煩悶する。
人々は己の名前を聞くだけで恐怖に震えあがり、抵抗することなく金目の物を差し出した。例え抵抗しようとも、自分たちに適う者は誰一人とていなかった。そう万事上手くいっていたはずだ。なのに、なのに、何故こんなことに。
他人を震えさせるはずの男が、今は自分が恐怖に身を震わせていた。
何もわからなかった。何が起きたのかも、何をされたのかも。何も。
瞬きをした一瞬の間に、皆は殺されていた。ある者は心臓を突き刺され、ある者は首と胴を切り離され、ある者は頭を貫かれ、男の部下であった仲間たちは皆無慈悲に命を絶たれた。全員がそう容易く倒されはしない屈強な者たちであったにも拘らず、反撃さえも許されず、一瞬で、一撃で、殺された。
その瞬きの後に立っていたのは、男と、闇、ただそれだけだった。
己が無事であった理由など考えず、考えることもできずに、恐怖に駆られて男は地獄絵図と化したその部屋から逃げ出した。
どこへ逃げれば良いのか。どこまで逃げたら助かるのか。男には何もわからなかった。
それを見透かすように冷たい声が追ってくる。
「どこへ行く?」
それは決して大きな声ではなかったが、男の耳にはっきりと届いた。まるですぐ後ろで発せられたかのように。
男の背筋を冷たい物が滑り落ちる。
振り返って確かめたい衝動に男は駆られたが、本能が止めろと警鐘を打ち鳴らしている。
振り向いてはいけない。振り向けばすべてが終わる。
本能はそう告げていた。
男は今までこの本能に従うことで様々な危機から免れてきた。人よりも少しだけ鋭い本能が男の命を長引かせ、成功へと導いてきた。
けれど。
男はびくりと震えて足を止める。
「今度の『黒影(オンブル・ノワール)』は腰抜けか」
それは男の前方にいた。
それは、闇。
「ひ……っ!」
男は後退った。
本能は逃げろと告げている。本能は視線をそらすなと告げている。本能は視線を合わすなと告げている。本能は――
「俺の名前の使用料を貰おうか」
にたりと口角を上げ、闇が嗤っている。
男は視界の隅にきらめく物を見た。
どこか遠くで鈍い音がした。
匿名の知らせを受け、歴史上最悪とされる大罪人の名を名乗る頭目が率いる盗賊団のアジトに警備兵が駆けつけた時、盗賊団の一員であると思われる者たちは全員何者かによって殺害されていた。頭目と思われる男も首を飛ばされて殺されているのが他の者たちとは少し離れた場所で発見された。
さらわれた子供はがらんとした小さな部屋で縛られているところを無事に保護され、両親のもとへと帰された。
子供は黒い聖騎士が助けてくれたのだと語ったが、関係者は盗賊たちが仲間割れの末に殺しあったのだろうと結論付けた。
ただ残念ながら、奪われた大量の金品はすべて売り払われた後であったらしく、山荘には何も残っていなかった。
青年は飾り気のない質素な布張りの長椅子に横になって眠っている。
わずかに開けられた窓からは心地よい風が室内へと滑りこみ、カーテンを静かに揺らしている。それと共に柔らかな日の光がカーテンの間から部屋中を照らしている。
青年は光を避けるように椅子の背のほうに寝返りをうった。男性にしては長めの黒い髪と露出の少ない黒い服とがあいまって、まるで長椅子の上に黒い闇が横たわっているようである。
その部屋の隣室では、装飾の見事な剣や槍、金と銀の食器や美しい装身具などが、日の光を受けてきらきらと輝いていた。
終わり