春の手向け

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 「エリュ!」

 呼びかけられてエリュアールは立ち止った。
 見れば慌てた様子でアーリヤが駆けてくる。

「何か」

 近くまでやってきた彼女に尋ねれば、信じられないといった表情で見上げられた。

「何かって……エリュがもう行っちゃうって聞いたから!」
「はい。部屋の片づけも済みましたので、特にここへ留まっている理由もありませんし」
 そう答えるエリュアールに対し、アーリヤは珍しくもどかしそうに地団太を踏む。

「お別れもしないで行っちゃうのはひどいよぉ!」
「あぁ……そういえば教官たちへは式の前に済ませてきましたが、貴女へはしていませんでしたね」
「忘れるなんてひどぉい!」
「忘れていたわけではなくする必要があると思わなかっただけですが……」
「余計にひどぉい! 私とエリュの仲なのにぃ……」
「私と貴女の仲と言っても……私が貴女の勉強の世話をしたというぐらいでしょう」

 アーリヤは見るからに悄然として肩を落とした。

「うぅ……私は結構エリュと仲良くやれてたって思ってたんだけどなぁ……エリュ的にはそうでもなかったのかぁ……」

 エリュアールは少し困った様子で首を傾げる。

「……貴女には迷惑をかけられたという記憶の方が多いですが」
「あうぅ……たしかにエリュにはいっぱいいっぱい迷惑をかけましたごめんなさい」
「でも」

 エリュアールは言う。

「私自身の勉強になることもありましたし、楽しいことがなかったわけでもありません。他の級友達よりは親しかったことは確かでしょうね」

 アーリヤはしばらく呆けたように口をぽかんと開けてエリュアールの顔を見上げていたが、しばらくしてようやく言われたことを理解できたらしく、ぱっと表情を輝かせた。

「エリュー!」
「ちょっと……!」

 そしてその勢いのままに抱きついた。
 エリュアールは持っていた鞄を取り落して二、三歩よろけたが、どうにか踏みとどまることはできた。

「うわあぁぁ私だけが友達だって思ってたらどうしようかと思ったよぉ!」
「はっ……放しなさい!」

 アーリヤがぎゅうぎゅうと締め付けてくるのを、エリュアールはばしばしと腕を叩いて止めさせようとする。
 そんな攻防がしばらく続いた。
 寮から学院の外――街へと向かう人通りの少ない道ではあったが、誰も通らないわけでもない。通りかかった人々――主に寮生は、騒いでいる二人を横目に見ながらいつものことといったように通り過ぎていく。
 アーリヤが落ち着きを取り戻してエリュアールを解放した頃には、彼女はすっかりぐったりとしてしまっていた。

「貴女はもう少し自分の腕力を自覚してください……」
「ご、ごめんなさぁい……!」

 エリュアールはため息を吐きながら落としてしまった鞄を持ち直した。
 改めてアーリヤと向き直る。

「学院を出てしまったら、もう再び顔を合わせることはないかもしれません。最悪、敵として顔を合わせるということもありえることです」
「エリュって割と悲観的だよねぇ」
「貴女がお気楽すぎるだけです! あぁ、もう、そうではなくて……」
「難しいことは分かんないから簡単にいこ!」

 アーリヤはそう言って片手を差し出した。
 エリュアールはまた一つため息を吐いて、それもそうですねと、その手を握った。

「お元気で」
「エリュもね!」

 ぎゅっと握手を交わし、二人は別れを告げた。






「バウエル、いるか」

 戸を叩きながら声をかけられ、エリュアールは顔を上げた。

「はい」

 答えながら、読んでいた本にしおりを挟んで閉じた。
 今日は休息日のはずだが、急な任務かもしれないと頭を切り替えながら戸を開ける。
 戸の外に立っていたのは声から予想していた通りの人物――直属の先輩ではあったものの、恰好は制服ではなく私服であった。

「休みのところ済まないな」
「いえ。急な任務……ではないようですね」
「任務ではないが、団長が呼んでる」

 エリュアールは己の格好を顧みた。休みであったので彼女も当然普段着である。人前に出られない格好ではないが。

「着替えたほうがいいでしょうか」
「いや、そのままで構わないだろう。そう大した用でもない」

 先輩は軽く笑いながら言った。

「先輩は要件をご存じなんですか」
「あぁ、そもそも自分が連れてきたからな」

 エリュアールは軽く首を傾げる。
 歩きながら話そうと促され、並んで歩きだす。

「バウエルが入って半年……はまだ経っていないか。お前が来る前は年単位で新人はいなかったんだがな」
「新しい団員、ですか」
「さっきも言ったように自分が連れてきた……と言うか、拾ったと言ったほうが正確か」
「はぁ」
「空腹で行き倒れてるのを助けたんだよ。そしたら金はないから体で返すって言ってさ」
「……それで団員になるように勧誘したんですか」
「いや、任務のちょっとした手伝いをしてもらったんだが、案外腕が良かったもんだから。それに当てもなく武者修行してるって言うから、それならって勧誘したんだ」
「武者修行……」

 話を聞きながらエリュアールは何とも言えない漠然とした予感を覚えていた。

「それで、何故私が……」
「あぁ、驚いたことにそいつもお前と同じで今年学院を出たというんだ」

 予感は強くなる。

「学院と言っても生徒の数も多かったですから知っているとは……」

 だんだんと渋面になっていくエリュアールに対し、話す先輩はひどく楽しそうだった。

「さぁて、どうかな」

 団長室の前へと着いた。
 エリュアールは扉を開けるのを躊躇したが、先輩は問答無用で扉に手をかける。
 制止することもできずエリュアールは扉が開かれるのを見ていた。
 扉の先、部屋の中にいたのは団長ともう一人、酷くくたびれた格好をした背の低い人物。
 その人物が振り返ったと思った次の瞬間――エリュアールの腹部へ衝撃が来た。
 つい数か月前にも同じようなことがあったと思いながら、今回もどうにか踏みとどまった。

「エリュ〜!」

 ぎゅうぎゅうと力いっぱいに締め付けてくる彼女に、エリュアールは渾身の力で頭を叩いて一息に言った。

「だから自分の馬鹿力を自覚しなさいと言っているでしょうアーリヤ・ティーバ!」


終わり