夜半の誘い

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 夜更けに女は目を覚ました。
 疑問に思う隙間もなく、呼ばれたのだと理解する。
 静かに寝台から身を起こす。靴を探す間さえも惜しんで、彼女は素足のまま部屋を出た。
 起きている者はいないようで、静かな宮の中で彼女の歩く衣擦れの音だけが際立っているようだった。
 女は迷うことなく歩みを進めていく。
 廊下を進み、階段を上り、建物の最上階にある露台へ続く戸の前に立った。
 取っ手に手をかけ、一つ息を吐く。
 今さらに、裸足の足が冷たいと思った。そしてせめて寝巻の上に一枚羽織ってくるのだったと。寝起きのままの髪も乱れているだろう。
 それでも彼女はそのまま戸を押し開けた。
 肌を刺すような冷たい風が彼女の身体から一気に残りの熱を奪っていく。
 それでも彼女は露台へと一歩踏み出し、後ろ手に戸を閉めた。
 空には細い弓なりの月がかかり、雲は少なく、星明りが瞬いている。
 女の視線の先、石造りの露台の手すりの上に、男が一人座っていた。
 戸口のほうへ背を向け、外側へと足を投げ出した格好だ。

「ようこそ、お越しくださいました」

 彼女の声は少し震えていた。
 呼びかけに応えるように、男は振り返った。投げ出していた足の片方を露台へ乗せ、半身だけ彼女へと向ける。

「やあ、こんばんは」

 女の硬い声に対して、男は気の抜けた声でのんびりとした挨拶を返した。
 この辺りではあまり見かけない薄い色の髪が、夜の闇の中わずかな光を反射して輝いているようだった。
 本来ならば部外者が立ち入ることなどできないはずの場所に男はいる。
 女も本来ならば男の侵入をすぐに警護の者に伝えなければいけない。
 けれども彼女はそうしなかった。
 膝を折り、頭を下げる。

「お目にかかれて光栄です、陛下」
「そんな畏まらなくていいよ。君の王様じゃないんだから」

 その言葉の女は息を詰めた。
 ゆっくりと頭をあげる。
 男の青みがかった灰色の瞳とぶつかった。
 その何もかもを見通している瞳に、彼女は目を伏せた。

「私達の王には、なっていただけませんか」
「ここはちょっと水の気配が薄すぎるからね」
「水の気配、ですか……」
「そう、あのずっと向こう」

 言いながら、男はまた露台の外へと体を向けた。腕をあげて指を遠くへと指し示す。

「見えないかな。あのずっとずっと向こうに、僕の海がある」

 言葉に誘われるように、女は立ち上がって手すりのほうへと近づいた。
 山の上の建物の、さらに最上階の露台からは、眼下の景色をずいぶんと遠くの方まで見通すことができる。けれどさすがに男の言う『海』は見えなかった。

「水蜥蜴たちとのんびり海に浮かぶのが趣味なんだ」

 男はそう言って笑った。

「そうですか……」
「君はもう自分の王様を決めているでしょう」

 女は男の顔を見た。
 咄嗟に口を開き、けれど言葉は出てこなかった。
 男の座る横の手すりに彼女は寄りかかる。
 夜も遅いため、山裾に広がる街にも明かりは少なく、わずかな月と星の明かりだけが地表を照らし出していた。

「あの人は……」

 見下ろしながら、女は言った。

「私達の王になってくれるでしょうか……」

 手すりに付いた手をぎゅっと握りしめる。
 男はさぁどうだろうと答えた。

「それでも、君は彼以外を王とは認めないだろう」
「そう……かもしれません」

 彼女の言葉は吐息と共にこぼれ落ちた。
 風がうつむく彼女の髪と服をばたばたとはためかせていく。
 男は体の向きを変え、両足を露台の内側へと下ろした。
 片手で彼女の頬に触れる。

「冷たいね」

 女はのろのろと男へ視線を向ける。
 男はさらにもう片方の手も頬に添えた。

「君は少しだけ僕に似てる」

 色の薄い瞳に間近で見つめられ、女は息を詰めた。
 飲み込まれてしまうそうだと思った。
 一歩後ろへと体を引く。
 頬を包んでいた両手はするりとほどけた。
 もう一歩後ろへ下がった。
 男は気にした様子もなく笑っている。

「何故、ここへいらしたのですか」

 女の言葉には再び硬さが戻っていた。
 ううんそうだね、と男は軽く首を傾げながら答える。

「君に会いに、かな」
「私に、ですか」
「この国のことを風の噂で聞いてね。少し興味がわいたから」

 他意はないよと彼は言った。

「そうですか」

 女はほっとしたように息をこぼした。

「僕は後継問題で煩わされることはないからね」

 笑って男は手すりの上へと立ち上がる。

「僕はもういないかもしれないけど、いつか海を見においでよ。君の王様と一緒にさ」

 じゃあね、と言いながら無造作に露台の外側へと足を踏み出した。
 咄嗟に女は手すりへと駆け寄った。
 下を覗きこんでも落ちたはずの男の姿は確認できなかった。
 どんな術を使ったのか分からないが、普通では登ってこれないはずのここまで誰に気付かれることなく登れたのだから、降りるのも難しくはないのだろう。
 手すりに身を預け、女は深く息を吐いた。

「いつか……」

 ぽつりとつぶやく。

「いつか行けるでしょうか……」

 彼女の言葉は風が浚っていった。


終わり