闇色の吐露

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 それに刃を与えたのはただの気まぐれだった。
 そも、自分の縄張り内でなにやら馬鹿げたことをやっていた奴らの根城に忍び込んでみたのも、ひどく退屈していたからだった。
 奴らは非合法なことに多少手を染めてはいたものの、禁忌とされている範囲を侵すまでには到っていない、言ってしまえば素人の集まりのようなものだった。おそらく禁忌というものの存在さえ知らなかったのではないだろうか。
 遠からず表の世界で真っ当に罰せられるか、運悪く禁忌を踏み越えてしまった場合には塵さえ残すことなく消されるかのどちらかだろうと思っていた。
 その時点では自分が手を出すことなど考えてもいなかった。
 そこに忍び込んだのはあくまでも先に述べたようにあまりにも退屈だったからだった。
 だから珍しくたいした下調べもせずに入ってみたのだ。
 まぁ、この身では下調べなんてしてもしなくても違いはないのだが。仕事をする時にはきちんと下調べをしてしまうのは長年の癖のようなものだった。
 ほとんど手こずることなく潜入し、忍び込んだからには何か持って帰ろうかと物色している時だった。それを見つけたのは。
 それは、ほとんど死に掛けの子供だった。狭く冷たい部屋で小さく横たわり、部屋に唯一差し込む窓からの薄明かりを見つめていた。
 ぼろぼろで汚く、小さな闇に馴染んだ子供。
 普段ならばそんなものに気を動かされはしない。
 世の中には死にそうな子供などごまんといる。それらを目にする度に心を痛めたり、手を差し伸べるほど、優しくも愚かでもなかった。
 気を引かれたのはその瞳。
 死相さえ見えそうな顔の中、黄色がかった薄茶色の瞳だけは生を渇望していた。
 だが子供は自分の状況をはっきりと自覚しているようだった。無知な子供のように決して起こることのない奇跡をただ闇雲に願っている様子はなかった。
 己がどうにも出来ないことを、助けてくれる何かなどないことを知っているようだった。
 生きたいという望みと絶望が入り混じった瞳。
 その瞳に引かれて、声をかけてみた。
 その時点でも助ける気などさらさらなかった。いや、最初から最後まで助けるという気は、助けたという気持ちはなかった。
 所詮は退屈しのぎ。
 自分がこの子供に干渉をすることで、ほぼ決まりきったような未来がの何かかが変わるだろうかという興味だけだった。
 けれど干渉とは言っても、大きなことなどする気はなかった。
 与えるのは切欠。それだけだ。
 その後に子供がどのような結末を辿るのか、見届けるつもりはあっても、手を出すことなどやはり考えていなかった。
 己を認識した子供は、酷く怯えていた。
 怯えながらも不思議と瞳をそらすことはなかった。
 良い眼だと思った。
 怯える子供に小さな刃を渡し、道を開いてやった。
 してやったのはそれだけ。
 戸惑いながらも子供は刃をかき抱き閉じ込められていた部屋を出た。
 運の良いことに、子供は誰に見つけられることなくそこを脱出することができた。
 持って生まれた資質のためだろう。
 最初は気付いていなかったが、闇の中で足掻いている様子を見ている内に分かった。
 子供はまるで先が見えているかのように間一髪で危険を避けていたのだ。それはおそらくまったくの無意識だったに違いない。
 自分の興味に引っかかったのもそれを知らぬ間に感知していたからかもしれなかった。
 無事に建物から出た子供は星の瞬きだけが広がる暗く広い夜空を呆然としたように見上げていた。
 それから今脱出してきたばかりの建物を見上げ、初めて顔から怯えが去った。
 安堵と喜びが取って代わる。
 けれどもはや体力が限界であったのか、そのまま地面に座り込んでしまった。
 再び子供の顔に不安や焦りが昇る。そして何よりも疲労の色が強い。
 無事に誰にも見つかることなく抜け出せたからと言っても、いつまでもすぐ側にいてはいずれ見つかってしまう。
 それを子供も分かっていたのだろう。
 よろよろと立ち上がる。
 立ち上がり、足を踏み出し、二歩も進まぬうちに膝が崩れて地面に座り込む。
 その繰り返し。
 子供はぎゅっと唇をかみ締めながらよろよろと立ち上がる。
 けれど今度は足を踏み出す前に膝が地面に落ちてしまった。
 身体がもう満足に動かないのだろう。立ち上がろうとしているが、立ち上がりきる前に地面に崩れてしまっていた。
 大きな瞳からぼろりと涙がこぼれた。
 咽喉がひくりと震えていた。
 子供は地面の上で小さな刃を抱えながら身体を丸める。
 泣いているのかと思ったが、子供はきっと顔を上げた。乱暴に手で眼を拭う。
 強い眼差しで星明りしかない夜の帳を睨みつける。
 どうするのかと見ていれば、子供は立ち上がることなく、そのまま這って進み始めた。
 思わず笑ってしまい、吐息がこぼれる。
 そのわずかな音に気が付いたのか、それとも偶々か、子供がこちらを見た。
 骨と皮ばかりの小汚い死に掛けの子供が必死に生きようとしていた。
 笑いの衝動は収まらず、闇を震えさせてしまう。
 最早完全に自分のいる場所が子供にはばれてしまっていた。
 子供は這うのを止め、こちらを伺っている。
 姿を隠すのは止めて子供の前に出て行った。
 まだ笑いは引かず、にたにたと顔を歪めながら。

「よぉう、外に出られた気分はどうだ?」

 こんなに愉快な気分になることは久方ぶりだった。
 聖霊の手の平の上で転がされている自覚はある。
 正直気に食わないが、同時にそれもまた一興とも思う。ひどく長く退屈な生なのだから、たまにはそれも良いと。
 子供は最早声を出すこともできないようだった。
 それでも視線だけはそらさずに真っ直ぐに見つめてくる。
 良い瞳だと再び思う。
 やがて気を失った子供を、根城へと持ち帰った。

終わり