いっそ雪でも降ればいいのに。
ロランはぼんやりと窓の外を眺めながら思った。
朝方は青空も覗いていたのだが、時間が経つにしたがって空は灰色の雲に覆われていき、今ではすっかり灰色一色である。たしかに、今にでも雨か雪が降ってきそうな、そんな天候だった。
外は随分と寒いのだろう。道を行き交う人々は皆、暖かそうな外套や襟巻き、手袋をして、それでも身体を縮めて足早に去っていく。
暖かい店内にいて、ロランは欠伸をした。
これが常であれば、すぐに注意が飛んでくるのだが、今はそれを咎めるはずのお目付け役のシェイは留守にしている。欠伸し放題といったところだが、何も彼は好きで欠伸をしているわけではない。
えらく暇なのだ。
ロランにとっては口うるさいのがいなくてたいへん嬉しいことであるのだが、他の者にとってはそうではないようで、数少ない常連客も馴染みの問屋も顔を覗かせてはすぐに帰っていく。
それには彼も少しばかりむっとした。
たしかにこの店の大部分の所をシェイが仕切っている。実質的にはシェイの店といっても過言ではない。しかし、店長はロランなのだ。たとえシェイの何十分の一しか仕事をしていなくとも、ここは彼の店なのだ。
それなのにどうにも客たちは彼のことを働かない駄目店員としか認識していないようだった。
しかしそれもしょうがないことだった。なにせ本当に働かないのだから。
元はそれなりに大きな商家の五男坊だったのに、こんな小さな店を自分で営まなければいけなくなったのも、その面倒くさがりで怠け者な性格のためだった。あまりの働かなさにキレた父親に家を追い出されたのだ。けれど優秀な店員がいるおかげで、結局のところ彼の性格は家を追い出される前と何一つとして変わってはいなかった。
だから、ロランはむっとしながらも、楽で良いやと思っていた。
楽なのはいいのだが、しかしやはり客が一人も来なければ暇だった。
ロランとしてはもういっそ今日は店仕舞いしたいぐらいなのだが、なにせシェイに自分が用事から帰ってくるまでちゃんと店を開いて店番をしていることと厳命されているのだ。
彼は今にも椅子からずり落ちそうな格好で、再びため息を吐いた。
実のことを言えば、シェイだって親から与えられたものなのだ。
家を追い出された時、ロランにはこの一階が店で二階が住居の小さな建物だけしか与えられなかった。それで当初は仕方なく彼も一人で働いてはいたのだが、面倒くさがりで怠け者だった箱入り息子がそんな突然商売できるはずもなく。見るに見かねた母親がお目付け役としてシェイを寄越してきたのだ。一応表向きはこの店の店員だけれど、給料は母親が払っている。今日シェイが留守にしているのも両親への月一の報告のためだ。
ロランは暇に任せて彼のことを考えた。
シェイはなんだって器用にこなす。おまけに若くて見た目だって良いのだから、本来ならばもっと重要な仕事を任されてしかるべきだ。なのにこんな街の片隅の小さな店でゴクツブシの面倒を見させられている。彼にとっては不本意なことだろう。そんな様子は一度たりとも見せたりはしないが、内心ではきっとそう考えているはずだ。ロランはそう思う。
それを彼は申し訳ないと思いながらも、この性格を直さなければシェイはずっと面倒を見ていてくれるかもしれないと、そんなことも考える。
ロランはシェイのことが嫌いではなかった。口うるさくて、いつも説教ばかりするが、それでも結局は自分の好きなようにやらせてくれる。そんな彼のことがロランは好きだった。
そんなことを言う勇気なんてないのだけど。
再びため息を吐いて彼は椅子に座りなおす。暇だから余計なことを考えるのだと思い、何かないかと店の中を見渡してみた。
この店の名前は一応、雑貨屋『ラメイレーラ』ということになっているのだが、肝心の商品である雑貨はほとんど置かれていない。わずか一角の小さな棚に絵葉書や小物入れ、用途のわからない置物などがあるだけだ。
店の大部分を占めているのは、あまり大きくはない、けれど狭い店内には十分大きい円卓と椅子だった。あまり装飾は施されていないがおしゃれな一揃いの卓と椅子は、売り物ではない。当初はたしかに売り物として仕入れられたのだが、ロランがそれを気に入ってしまい、売るのを止めたのだ。二階の住居部分には置く場所がないので、とりあえず店に置いてみたところ、客がそこに座って話をしていくようになった。ならばとお茶を用意すれば、思いのほか好評で、今ではそっちの方が主要な商売になっているほどだった。
その円卓の上に雑誌が一冊置いてある。あまり聞いたことのない名前の雑誌だった。たぶん客の忘れ物か、いらないので置いていったのか。
興味はなかったが、暇つぶしにはなるだろうと開いてみる。それでもやっぱり記事にはまったく興味を覚えることが出来ず、斜めに読み飛ばしていく。
ぱらぱらと頁をめくっていた彼の目にふと一つの記事が飛び込んできた。簡単なおまじないを紹介している半頁の囲み記事で、可愛らしい字体で『占い師オーヴのドキ☆ドキまじない講座』と書かれている。
ロランは別におまじないなんて信じてはいなかったが、気まぐれでやってみることにした。
書かれている通りに手を組み合わせる。指を交差させて、曲げて、指先を合わせる。
そして呪文を唱える。
「ネイジェ」
ロランの声は誰もいない店に響いた。
やっぱり何も起きるわけがない、と苦笑して彼は手を解いた。
カランカラン――扉に付いている鈴の音と一緒に、冷たい匂いが飛び込んでくる。
ロランは目を丸くした。
髪と同じ黒い色の外套を身にまとい、淡い綺麗な蜂蜜色の襟巻きをした男が扉を開けて立っている。シェイだった。
「ただ今帰りました」
咄嗟にロランは壁に掛かっている時計を確認する。まだ昼を少し回ったところだった。出かける時、シェイは帰ってくるのは夕方になると言っていたはずだ。
時計とシェイの顔を行ったり来たりするロランに、シェイは苦笑して軽く肩をすくめる。
「貴方に店を任せているのが心配でさっさと帰って来ました」
その言葉に文句を返そうとロランは口を開けたが、すぐに思い直して口を閉じた。
シェイがおやっと言うように眉を上げたが、ロランは気にせずに目の前に広げていた雑誌を閉じて立ち上がった。
「紅茶でも入れる」
今度はシェイが目を丸くする。そして手袋を脱ぎながらロランに駆け寄ると、前髪を掻き上げて彼の額に手を当てた。
「熱でもあるんですか!?」
それには流石の怠け者も口をへの字に曲げる。
「失礼な。俺だってそんな気分になる時だってある」
ぷいっとシェイの手から逃れると、彼は紅茶を入れるために店の奥に入った。
お湯を沸かして準備をしながら、掻き上げられて少しくしゃくしゃになった前髪を直し、ロランはちらりと窓の外を見やる。窓硝子に映った顔が、心なしか少し赤いような、そんな気がした。
「会いたい人に会えるおまじない、か……」
意外と効くもんだ、とロランは呟く。
いつの間にか雪は降り出していた。
終わり