月見酒

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 見上げれば真円の月が紺色の空に浮かんでいた。
 少しだけひやりと冷たい空気を存分に肺に吸い込む。

「んー! 良い月夜!」

 アーリヤは両腕をぐいっと頭上に引き上げて伸びをしながら言った。
 その片手には紐で釣った小ぶりの瓶が持たれている。
 腕を下ろしながら、共に降りてくる瓶の側面に彼女は軽く口を押し付けた。

「えへへへ首尾よく良いお酒も手に入ったしぃ〜」

 アーリヤは上機嫌で小瓶を揺らしながら歩き出した。
 瓶が揺れるたびに中で液体がたぷたぷと揺れる音がする。
 それを聞くのは持ち主であるアーリヤ一人。
 夜の帳が降りて久しい学院の敷地内には彼女以外に人影は見られない。
 彼女が現在の住まいとしている学生寮はすでに門限どころか消灯時間を過ぎているのだが、気にかける素振りも見せずにのんびりと自由気ままに歩いている。
 向かっている方向も決して学生寮のある方向ではなく、それどころか真逆。
 こんな時間にこんな所をぶらついている姿を下手な人物にでも見られれば後日叱られることは確実なのだが、そのことさえ気にする様子もなく、浮かれながら彼女は薬草園の中を突っ切って行く。
 浮かれながら歩いていたアーリヤがふと足を止めた。
 軽く首を傾げて前方に目を凝らす。
 薬草園を抜けた木立に囲まれた校庭。
 そこにぼんやりと光が見えていた。

「んんー、アレは……?」

 光に照らされて人影がちらちらと見える。
 しばらく見詰めていたが、人影の正体に確信を持ったのか目を輝かせながら駆け出した。
 そして走り寄った勢いのまま、その人影の背中に抱きついた。

「えーりゅぅ!」
「あっ!」

 声に一瞬遅れてがしゃんという音が上がる。
 アーリヤは抱きついたまま肩口から前を覗き込む。
 地面に小鉢が転がっていた。幸いにも割れてはいなかったが、中に入っていたであろう何かはほとんどが地面にこぼれてしまっているようだった。
 それを見た彼女はそうっと離れようとした。
 けれどそれよりも早く、腕が掴まれる。
 アーリヤが勢いよく抱きついた人影――エリュアールによって。

「アーリヤ・ティーヴァ」

 名前を呼びながらエリュアールは首を回した。
 その顔に浮かぶのは微笑。
 ひっとアーリヤの咽喉が鳴る。
 優しげな笑みとは裏腹に腕を掴む手には強い力が込められている。
 身体能力的には圧倒的にエリュアールよりもアーリヤのほうが優れているのだから、振り払えないわけではない。
 けれどアーリヤは早々に白旗を揚げた。

「ごめんなさああああああああい!」

 それからしばらくアーリヤは地面に座らされて説教と相成ったのであった。
 ようやくそれが終わるとエリュアールはアーリヤに問うた。

「それで、貴女はこんな時間にこんな場所で何をしているんですか?」
「満月が綺麗だったからお月見しようと思って!」
「深夜の外出許可は……」
「え、なぁにそれ?」

 説教が延長されたのは言うまでもなく。
 二度目の説教後、アーリヤはようやく足を崩すことを許された。
 足の痺れを逃がしながら今度は彼女が問う。

「そう言えばエリュは何してたの?」
「課題の一環です。言っておきますが、貴女とは違いきちんと外出許可はとっていますから」

 地面に転がっている小鉢を拾い上げながらエリュアールは答えた。

「課題?」
「植物学の講義の……貴女は取っていませんでしたね。この木が満月の夜にだけ滴らせる雫を採取していたんです。……まぁ、貴女のせいで集めたものはすべて土の中に染み込んでいきましたけども」
「う……ごめんなさい」
「貴女はもう少し年相応の落ち着きを持って行動してください」
「はぁい」

 返事をしながらもアーリヤはエリュアールが示した木を見上げた。
 まだ若い樹木らしく、背もそれほど高くなく、幹も細い。
 よくよく見てみると、確かに枝の一番先端に付いている葉の先端に雫が溜まっている。
 わずかに首を傾げながらしばらく見ていたアーリヤは不意にあっと声を上げた。

「この木ウチの近くに沢山植わってたやつだぁ」

 言いながらおもむろに葉を一枚千切る。

「何をしているんですか?」
「えっと……たしかこう……」

 問いには答えず、葉をくるりと漏斗状に巻き、端を何やら弄っている。

「できたぁ! 久しぶりでも案外覚えてるもんなんだねぇ」

 そう言って掲げたのは葉でできた浅い器。

「杯、ですか?」
「うん、家にいた頃よく杯の代わりに使ってたんだぁ」

 できた葉の杯をエリュアールに渡すと、アーリヤはもう一枚葉を千切り、やはり同じように杯をもう一つ作った。

「なにをするつもりですか」
「え、何って……一緒にお月見、しない?」

 アーリヤの言葉に、エリュアールはこめかみの辺りに片手を当てながら大きな溜息を吐いた。

「先程も言いましたように、私は課題の最中です」
「えーでも雫を取るだけでしょう? その鉢に溜まるの待ってるだけなんだから一緒にお月見しようよぉ」
「経過の観察も課題の一つです」
「えー」
「……まぁ、貴女がどこで月見をしようが構いませんが」
「あ、それってここにいていいってことだよね!」
「私は課題の最中ですからお酒は飲みませんからね」
「でもおしゃべりはしてもいいよね!」
「…………まぁ、そうですね」
「わぁい、エリュとお月見〜!」

 アーリヤは手酌で葉の杯に酒を注いだ。
 それを軽く掲げると、杯の水面に満月が映りこむ。

「えへへー良い月夜かなー」

 上機嫌にアーリヤは杯を飲み干した。

「くぅーっ最高!」
「お、月見か?」

 ひょいっと一人の青年が木陰から覗き込んできた。

「シャール・ナダリア」
「あれー、シャールじゃーん、どうしたのぉ?」

 見知った青年にエリュアールはわずかに眉をしかめて、アーリヤは親しげに声をかけた。

「課題帰りだ」

 シャールは答えながら小さな瓶を掲げて見せた。

「エリュと同じの?」
「そうだが……バウエルはまだ終わってないのか?」
「ええ……どこかの誰かさんのせいで取った分がすべてパアになってしまったので」

 エリュアールはじろりと横目でアーリヤを睨んだ。
 その様子で察したのだろう、シャールはなるほどと頷いた。

「あ、ねえ! シャールはもう課題終わったんだよね! だったら一緒にお月見しよう!」
「あー……まぁ、いいぞ」
「やった!」

 アーリヤは先程作った杯の一つをシャールに渡した。

「へぇ、葉で作ったのか。ティーヴァって案外器用だよな」
「昔教えてもらったんだぁ」

 言いながら杯に酒を注ぐ。
 自らの杯にも注ぎ、再び掲げる。

「かーんぱぁい!」

 シャールも軽く掲げてから杯を傾けた。

「良い酒だな」
「でっしょぉ!」

終わり