Gate

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カツ、コツと一人分の足音だけがコンクリートの上を通り抜ける。
空は夕焼け色に染まり、辺りは薄暗い。
彼女は学校からの帰り道を歩きながら落ち着かない気持ちを抱えていた。
いつもと変わらない通学路のはずなのに、何故か見慣れない景色を眺めているようだった。
HR後に友人とのおしゃべりに夢中になりすぎて帰るのがいつもより遅くなってしまったためだろうか。
片手に下げていた鞄をぎゅっと胸の前で抱きしめながら歩道の端を歩いて行く。
ジジ……ッというかすかなノイズ音に彼女はびくりと身体を震わせて足を止めた。
音に一瞬遅れて道が急に明るくなった。
見上げると街灯に明かりが灯っていた。
彼女はほっと息を吐き出し、無駄に力が入ってしまっている身体から力を抜いた。
顔を上げて再び歩き出したが、ふと目の端に映った物に気を引かれてすぐに足を止めてしまう。
それは扉のようだった。
石積みの塀の中ほどに埋め込まれた、高さが一メートルほどの小さな両開きの扉。
「……こんな所に扉なんてあったかな……」
彼女は呟きながら軽く首を傾げる。
いつも通っているはずなのに覚えていなかった。
よく見ると扉は右の戸がわずかにこちら側に開きかけている。
彼女は扉に手を伸ばした。
開けようと思ったわけではなかったが、まるでその扉に引かれるように、勝手に手が伸びていた。
彼女はそれを不思議だとも思わなかった。
彼女の手が取っ手にかかったその瞬間――
タンッと彼女の横から手が伸びてきて扉を押さえた。
はっと振り返れば背後に一人の少女が立っていた。右目を眼帯で覆い、この辺りでは見かけないデザインのセーラー服を着ている少女。
「開かないで」
「ご、ごめんなさい……」
少女の言葉に彼女は手を引っ込めて謝り、慌ててその場から離れた。



眼帯の少女は女子生徒が小走りで離れていくのを扉に手を置いたまま見送った。
女子生徒の姿が角を曲がって見えなくなってから、扉へと視線を移す。
先程まで開きかけていた扉は彼女が押さえたために今はぴたりと閉まっていた。
「間に合ったみたい?」
彼女は一人呟く。
『あぁら、ツマラナイわねぇ』
女子生徒が立ち去ってこの場所には彼女の人影しかないはずが、どこからともなく声が聞こえてきた。
けれど眼帯の少女は気にした様子もなく扉をじっと注意深く観察している。
『ちょっとぉ、ムシしないでちょうだぁい』
声と共に彼女の右後方にどろりと灰色の煙の固まりのような物が現れた。
煙はすぐに晴れ、その下から人影が現れる。
着物を身にまとった女だった。襟を大きく抜き、胸元の合わせも大きく開き、肌を露出するように着崩している。
けれど異様なことに、服から覗いている肌は青白い色をしていた。青ざめているなどの比喩ではなく、真に青白い肌だった。所々には鱗のようなものまで見えている。
明らかに人外の様相の女は更に地に足を着けておらず、何もない宙に腰掛けているような体勢で浮かんでいた。
チカリと街灯が瞬く。
少女はさっと振り返った。
見上げた先は電信柱の上。
『ザァンネン、間に合ってなかったみたいねぇ』
嬉しそうな色を隠すことなく人外の女は言った。
街灯の明かりの届いていない電信柱の上にそれはいた。
夕闇に紛れて姿ははっきりとは見えないが、獣のようだった。目だけが赤く光っている。
大型犬ほどの大きさのそれは、じっと少女たちの方を見ていた。
ギギギギ……と何かを擦り合わせているような音が響く。
電信柱の上の獣から発せられているようだった。
「コノツノ、誘導」
『はぁい』
少女の言葉に女は返事をし、すいっと少女の側から離れた。
着物の裾が魚の尾びれのように軽やかにひるがえる。
獣の視線が少女から離れ、女を追う。
女は宙を滑るように上がっていく。
少女はそれを見ながら、扉の取っ手に手を置いた。
家の屋根の高さ辺りで女は止まった。
『さぁ、遊びましょうねぇ』
そう言いながら彼女は左の袂から緑の葉のついた細い枝を一本取り出した。
獣の身体がざわりと揺れて一回り膨れ上がり、ギギギという音も大きくなる
女が枝を振るとシャラシャラと小さな鈴のような音が鳴った。
『ほぉら、コッチにおいでなさい』
女は枝を揺らしながら、すいっと宙を滑る。
誘われたように獣が女に襲い掛かる。
女は慌てず余裕を見せながら避けた。
明かりの届く範囲に入り、獣の姿がはっきりとする。
体毛は枯れた葉のような緑がかった灰色。とがった三角の耳に細長い尻尾は猫のようだが、足は毛ではなく鱗に覆われており、水かきもあるようだった。
猫もどきは避ける女を追いかけては飛び掛っていく。
女は避けながら地上へと誘導していく。
獣は獲物を仕留められずイラついているのか、音がギチギチと激しくなってきている。
その様子を見て女はにんまりと笑う。
『タンキな子は嫌われるわよぉ』
言いながら女は持っていた枝を投げた。
シャラシャラと音を立てながら枝は弧を描きながら落ちていく。
獣の視線がそれを追う。
枝は落ちて少女の手の中へ。
獣の視線が眼帯の少女に辿り着く。
「おいで」
シャラシャラと枝が振られた。
獣は引っ張られるように少女へと飛び掛っていく。
少女はじっと距離を測り、獣の腕が届く直前で身体を横に避けた。
扉の片方の戸と共に。
扉の先には塀の向こうの庭ではなく、赤い世界が広がっていた。
赤褐色の大地に植物はまるでなく、絵の具を塗ったような赤い空には大小の青い月が二つ。
獣は勢いを殺しきれず、そのままこの世ではありえない景色の中に突っ込んでいった。
すかさず少女は扉を閉める。
彼女は扉を押さえたまま己の髪の毛を一本だけ抜いた。
それを扉の左右の取っ手にしっかりと巻きつける。端を中に折り込んで解けないようにすると指でその上を一撫でした。
と、次の瞬間、ダンッと強い音が鳴り響いた。
反対側から扉を開けようとしているらしく、音と共に扉の左右の合わせがわずかにこちら側にせり出してくる。
けれど扉はそれ以上動かない。
もう一度音と共に扉が揺れる。
やはり開かない。
少女が取っ手に巻きつけた毛が扉を閉ざしているのだ。
巻きつけた時にはただの細く黒い毛だったはずだが、今はわずかに赤く光を放っている。
ダンッとまた向こう側から扉を開けようとしてくる。
「煩い」
少女は表情も変えずに言うと、ドンッと扉を蹴り返した。
すると驚いたのか、恐れをなしたのか、諦めたのか、扉は静かになった。
少女の側に戻ってきた人外の女がケラケラと笑う。
『根性なしねぇ、こんな軽い封も破れないナンテ』
「破られたら困るわ」
言いながら少女はポケットから細長い紙を一枚取り出した。
その紙を左右の戸に跨るように貼り付ける。
そして紙に指で何事かの文字を書き、ふっと息を吹きつけた。
途端にジワリと『封』という文字が浮かび上がってくる。
「フミさんによれば大物はいないそうだから、これで十分でしょう」
『もう少し遊べるかと思ったのに、ザンネンだわぁ。あのクソ予言書の言う事なぁんか外れれば良いのに』
「外れたら困るでしょう。あとクソって言わない」
顔を歪めながら口汚い言葉を呟く女を少女がたしなめた。
『あんな奴クソで十分よぉ、あっちだってアタシのことアバズレ呼びしてくるんだもの』
「……貴方たちってどうしてそんなに仲悪いの?」
『なんかアレよぉ、生理的? 根っからアワナイって感じなのよぉ!』
少女と女は軽口を叩きながら扉に背を向けた。
街灯がチカリと瞬く。
一瞬の薄闇が開けると、塀から扉は消えていた。
元からそこには何もなかったかのように、ただ石積みの塀だけがたたずんでいるだけだった。
人外の女もいつの間にか消えている。
眼帯の少女は振り返ることなく、立ち去っていった。



狭い部屋だった。蝋燭の立てられた燭台と小さな文机が一つあるだけの板の間である。
その部屋に男が一人。ちらちらと揺れる蝋燭の火の下、文机の前に座り、本を開いている。
開かれているページには文字も絵も何も書かれておらず、ただの空白が連なっているだけ。
次も、その次も、何枚めくっても白紙のページしかでてこない。
けれども男はその白いページに何か書かれているかのごとく、端から端へ視線を上下に動かしては紙をめくっていた。
その男がふと顔を上げる。
視線を向けたのは正面の襖。
彼が目を向けたのと同時に障子がすっと開いた。
障子の向こうにいたのは眼帯の少女。
「フミさん、戻りました」
男は一つ頷くと開いていた本を閉じ、部屋の中へ入るよう指示した。
促されて少女は軽く一礼してから中へと入り、男の側まで寄って腰を下ろした。
「おかえりなさい、怪我はありませんか?」
「大丈夫です。一体だけ向こう側から出てきてしまっていましたが、小物だったのでさっくりと戻してから封じてきました」
「それはなにより」
男はもう一度頷くと机の引き出しから小さな包みを取り出した。
それを少女に差し出す。
「ご褒美のお菓子」
少女はぱっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます!」
彼女が受け取ろうと手を伸ばしたその前に、背後からすっと伸びてきた手が包みを取り上げていった。
横取りしていった手の先には青白い肌の人外の女が寝転ぶような体勢で宙に浮いていた。
『ヤッスイ報酬ねぇ』
彼女の姿を見て、男は顔をひどくしかめさせる。
少女もむくれた顔をしているが、それは女を見てというよりは包みを取られたからだろう。
「返してよ」
少女が取り返そうと手を伸ばすが、女は届かない高さまで腕を上げてしまう。
「それはお前のような役立たずにではなくこの子にあげたものだ。返しなさい」
男がとがった口調で言う。
女は顔を歪ませて鼻で笑う。
『あぁら、部屋の中からイッポも出てこない引きこもりのアンタより、アタシのほうがちゃぁんと役に立ってるわよぉ』
「無駄に事態を引っ掻き回しているだけの間違いでしょう」
男もふんと鼻を鳴らす。
女と男は少女を挟んでにらみ合う。
『陰険偏屈ジジイ』
「浅はか尻軽女」
また始まったと少女は軽く肩をすくめる。
この二人は何故だか仲が悪く、顔を合わせればいつも言い合いをはじめてしまうのだ。
過去に二人の間に何かあったというわけではなく、初めて顔を合わせた時からこうだった。
女が気を取られている隙に、少女はさっと包みを奪い返した。
口論に夢中になっているようで女は取り返されたことにも気が付いていないようだ。
時々、二人は仲が悪いのではなく良いのではないかと少女は思ったりもする。
彼女はそんな二人の罵りあいを聞き流しながら包みを開いた。
中に入っていたのは色とりどりの小さな金平糖。
小さい粒を一つ摘み上げ、口の中へと放り込む。
口の中に広がる甘みに少女の顔が笑みに輝く。
女は安い報酬だと言ったが、少女の仕事に対しての正式な報酬は別に出ている。
だからこの金平糖は、甘い物が好きな彼女に男から好意で用意された物なのだ。
少女の名はフタハ。まだ齢十五の子供であるが、ただの子供ではない。
異形の物を認識し、対抗する力を持つ特殊能力者である。
彼女の仕事はこの世界と別の世界とを繋げてしまう《扉》を閉ざすこと。
《扉》を放置してしまえば異世界の生物がこの世界に入り込んでしまう。入り込んだ異生物はこの世界の理には合わず、害となる。
それを防ぐために《扉》を封じて開かないようにするのだ。
《扉》は神出鬼没であり、どこに現れるか分からない。
けれどその出現の予測を立てられる能力を持つ者も極わずかではあるが存在する。
その一人が少女フタハの目の前にいるこの男である。
男に名前はない。少女は『フミ』と呼んでいるが、それはただの通称に過ぎない。
名前のない彼は、人ではない。人の形を取ってはいるが、その正体は一冊の書物。
遙か昔に力ある能力者により書かれた物。
長い年月を経て妖物となしたのである。
彼の本体に書かれているのは遠い未来に起こるであろう事柄――つまりは予言。
不意に現れる《扉》の位置を予知して記述した物なのだ。
《扉》から異生物が入り込むことを防ぎたい者たちにとっては大変有難い物なのだが、困ったことに、妖物となし意思を持った彼は少々我が侭であった。
己の中身を不特定多数の者に見せることを拒否したのである。
彼が気に入った者や認めた者にしか中身を公開しないのだ。
おまけに、公開するとは言っても全てを見せてくれるわけではない。直近の予言のみを提示するのである。
またその予言というのも、正確な日時や場所が記されてはおらず、大昔に書かれた物であるため文章を読み解くのも中々に難しいという代物であった。
そうではあっても、きちんと読み解くことができれば非常に役に立つ情報となるのだ。
運が良いのか悪いのか、少女はそんな彼に気に入られた者の一人であった。
彼女が特殊能力者であることも相まって、彼が出現を予言する《扉》の番人となったのである。
この場にいるもう一人、予言書の男と言い争っている人外の女はそんな彼女を援護する使い魔という役割である。
――表向きは。
女――コノツノは確かに少女フタハの手助けをすることはするが、実のところ、二人の間に主従の契約は結ばれていない。
女が少女の側にいるのはただ単に、「面白そうだから」というそれだけの理由だった。
要は、少女はこの人外の女にも気に入られているということである。
妖物の男と人外の女の仲が悪いのもそのせいなのかもしれなかった。
けれど、間に挟まれている当の本人はといえば、二人のことなど気にした様子もなく、ささやかな甘味の幸せに浸っているのであった。


終わり