置き去りにされた錆びた道具達、造りかけのまま完成しない朽ちたビル群。人気はまるでなく、ただ夜空の星々が煌々と輝いている。大きく欠けた月は命を照らすことなく、そのかす幽かな光を地上へと投げ落とす。夜の深い闇も今は眠っている。
生命なき静寂。
一面に渡る、張り詰められた冷たく細い糸。糸が─切れた。
どこか遠くで鳴り始めた遮断機の音が空気を振るわせている。それだけで。ただそれだけのことが、その<場>の雰囲気を変えてしまった。
無価値に輝いていた星々は各々の意味を主張しながら瞬き、無意味に光を投げ落としていた月は確かな意図で地上をかす微かに照らす光を降り注ぎ始め、闇は目を覚ました。
空気が、揺れる。
空間が、歪む。
歪みは更なる歪みを呼び、大きな欠如(あな)となる。何処に繋がる欠如か。この世の果てか、あの世の際か。
欠如は広がり、大きなモノを吐き出した。
それは生まれて間もない小さな赤子。何も知らぬままに放り出された邪気なき生物。何も知らぬが故に、泣いて己が存在を知らしめる。それが危険なことだとも知らずに。
泣き声が渡る。
赤子は何も知らない。故に泣き続ける。
<場>が動き出す。
星々が赤子をあやし、月が優しく見守る。闇は、狙っている。
命の途絶えたこの<場>に突如現れた小さな命は、各々に己の存在の本来の意味を思い出させた。
星は命あるモノのために安らかな眠りへと導く子守唄を歌い、月は命あるモノの傷つき疲れた心を癒し和らげる。闇は命あるモノを狂乱の淵へと突き落とす。
けれど赤子は何も知らない。故に泣き続ける。
闇が狙っている。
<場>が動き出す。
風が一陣ふっ……と、赤子の周りに吹き降ろした。
現れたのは一人の女。夜のごとき髪を背にたらし、暁に登る太陽のごとき瞳を持った、若く美しい、女。けれどもその瞳からは、まるで長き時を生きた者のごとき、深い英知がにじみ出ていた。
「我を呼んだのはお前かえ?」
女は赤子を認めると、優しい笑みをこぼした。
しかし赤子は泣くばかり。何も知らずに泣くばかり。
「なんとも威勢の良い赤子だろうねぇ」
笑いながらそう言うと、女は壊れ物を扱うように慎重な手つきで泣いている赤子を抱き上げた。
「ほうら、泣き止むんだよ。泣き止むのが良かろう」
女が慣れた手つきで赤子をあやすと、赤子はすぐに泣き止み、眠り始めた。すやすやと、もう怖いことなどないとでも言うかのごとく。
そんな赤子の様子に女は笑みを深くした。
「おうおう、良い子じゃ。良い子じゃぁ。良い魂の色をしておる。おまけに、夜にも好かれておるようじゃの」
女は嬉しげに目を細めると、夜空を振り仰いだ。
「数多に輝ける星々よ、この子をあやしていてくれたことに感謝を述べよう。細い光を注ぐ二十六夜の月よ、この子を闇に取られぬよう見守っていてくれたことに感謝を述べよう」
次に目を鋭くし、辺りに視線を走らせる。
「蠢く闇どもよ、われ我が来たからにはこの子には手出し無用ぞ」
女の言葉に星々は奮えるように明滅し、月は寡黙に光を注ぐ。闇は一歩後退した。
「さあて、この子にも名を考えてやらねばならぬのぅ。何が良かろうか……」
女は考え込むように赤子をじっと見詰めた。
もしかしたら、もうすでにこの赤子には両親、あるいは祖父母から、名が付けられていたのかもしれない。しかし誰も呼ぶことのない、誰も知らぬ名など、それは名ではない。ならば付けてやれば良い。この赤子の性質を見抜き、それに見合った真の名を。
女は顔をあげ、夜空を見渡した。
空では星が期待に瞬き、月が嬉しげに輝いている。辺りには闇が遠慮がちに、けれども興味深げに立ちこめている。
皆がその時を待っていた。ただ静かに、その時を。
再び女は赤子に視線を戻した。
心に一つの言葉が浮かぶ。
「夜……夜の王……。そうじゃ。お前の名は夜王じゃ。これ以上の名はなかろうて。まあ、いささか安直なれども、それは仕様のないこと。良しとしておこう」
そう言うと、女は右腕を空に伸ばした。するとどこからともなく細く長い不可思議な杖が現れ女の手の中に収まった。
その途端、女の表情が変わった。優しさが消え、冷たさが表情にのる。
「われ我は暁と宵を統べし暁宵の凰王(ぎょうしょうのこうおう)」
杖の先に光がとも燈り、女が杖を振るたびに光が尾を引く。
「欠如に落ちまよ迷いご子に名を与えん。名は夜王!」
光は弾け夜空へと消えていった。光は全てのモノに女の言葉を伝えていく。
「宴じゃ! 宴の始まりじゃ! 夜の住人よ! 歌い躍るが良い! 待ちに待ったぬしらの王の誕生ぞ! 祝うのじゃ!」
夜が、奮えた。
音ならぬ歓喜の歌、姿見えぬモノどもの祝福の舞。
星が、月が、闇が、全ての夜にいきる存在するモノたちが、己らの王の誕生に歓喜した。
さざめく静寂の中、女の腕に包まれて赤子は眠る。眠る赤子は、何も知らない。
それはある夜に起こった事。人間達の知らない、夜の出来事。
終わり